していないで、そうして人生から食物を貪《むさぼ》っている。食だけではない、酒まで貪って飲んでいる。これでいいだろうかと深刻(?)に自省を発し出したことが、この先生の生活の空虚を感じ出した最大の理由なのです。
 長者町の本業を、高弟の道六に引渡して、身軽に旅に出て今日まで来たのはいいが、旅そのものを味わっていれば、日々の心がおのずから緊張もするが、こんなふうにして、進みもならず、退きもならず遊食していることは、この先生の良心に於て甚だやましいものがあるのです。日頃の主義主張としても、一日|作《な》さざれば一日食せずという気概の下に働いて来たこの先生が、このごろでは一日中、何も作さずに、のんべんだらりと、食ったり飲んだりしている日が多い。こんなはずではなかったのだ。
 そこで道庵先生は、こう毎日、のんべんだらりとして宿屋の飯を食っていることに生活の空虚を感じ、これでは天道様に対して相済まないと自省してから、こういう無意識空虚な生活から一日も早く脱却向上しなければならぬと義憤を発したのです。
 しかし、そのくらいならば、一日も早く京都へ立ったらいいだろう。こうして幾日も宿屋飯を食って大津界隈にぶらついていないで、京へなり、大阪へなり出立したらいいだろうというに、なかなかそうもいかない事情があるのです。
 というのは、道庵先生には敵が多いということがその理由の一つなのです。丁馬、安直、デモ倉、プロ亀、どぶ川、金茶、大根おろし、かき下ろし、よた頓、それらの輩《やから》は眼中に置かずとしても、河太郎の一派が大阪で手ぐすね引いて待構えている。これにはさすが江戸ッ児のキチャキチャ(チャキチャキの誤り)弥次郎兵衛、喜多八でさえも荒胆《あらぎも》をひしがれたので、この一派は江戸者に対して常に一種の敵愾心《てきがいしん》を蓄えている。一くせ[#「くせ」に傍点]ある江戸者が来たと聞くと、早速奇正の術を弄《ろう》してそのドテっ腹をえぐり、これに一泡吹かせて快なりとする悪い癖がある。その一味が、道庵来れりという内報を早くも受取って、用意おさおさ怠りがないらしいから、うっかり乗込もうものなら、忽《たちま》ちわなにかかって、十八文の金看板に泥を塗られるにきまっている。
 それからまた大阪には、緒方洪庵塾《おがたこうあんじゅく》などの無頼書生、翻訳書生が、これもまた道庵西上ということを伝え聞いて、手ぐすね引いている。この派の者共は、河太郎式の草双紙本と違って、みんな蘭学の方のペラペラである。皇漢主義の、江戸でも知る人は知る、知らぬ人は知らないつむじ曲りの町医者道庵なるものが、こんど京大阪へ乗込んで来るそうだ。来たら袋叩き――と待ちかまえているという風聞が、かねて道庵の耳に伝わっている。
 その中へ一人では乗込めない――内心を聞くと、道庵も鼻っぱりに似合わず弱気なもので、そういう理由から危うきに近よるには、近よるようにして近寄らなければならないのだが、用心棒としての精悍無比なグロテスクは行方不明だし――女流興行師の大御所は、財閥に胡麻《ごま》をすることに急にして、自分の方はかまってくれない、頼む味方というものがない――それを心細がっている道庵は、我《が》を折って、お角さんの用のすむのを待ちわびて、これが同行を離れまいとしているところは、女にすがる意気地なしの骨頂のようでもあり、道庵の風上へも置けない醜態のようでもあるが、実のところは、あのたんか[#「たんか」に傍点]の切れる江戸前の鉄火者《てっかもの》を陣頭へ押っ立て、自分は蔭にいて、ちびりちびりとやりながら、女弟子でさえあの通り――うっかり親分にさわるまいぞ、という威力を見せて鴨振《カモフラ》しようというズルい考えがあるのです。つまり、面倒臭いことはお角にぽんぽんとやらせて、ごまかしてしまい、自分は隠れて一杯もよけいに飲みたいという腹なのですからズルいです。しかし、また一方、お角さんの方から言うと、自分もこれから京大阪の本場へ乗込むについて、この先生から離れたくない、この先生を手放したくない、という浅からぬ底意もあるのです。
 というのは、お角さんは、啖呵《たんか》は切れて、鼻っぱしの強いことは無類であって、この点では贅六《ぜいろく》人種などに引けを取る女ではないが、悲しいことには字学の方がいけない。熱田神宮の門前の茶屋でも、小娘に向って、「姉さん、ここの神様は何の御信心に利《き》くの」とたずねてテレてしまったことがある。ある時の如きは、皆々がよってたかって、舶来物が出来がよくて、和製はいけない、いけない、なんどとケナすのを聞いて、ムカッ腹を立て、「どうして、日本じゃ舶来が出来ないものかねえ」と口走って、一座の顔の色を変らせたことなんぞもある。そういう時に、お角さんの威勢に怖れて、明らかには笑ったり、そしったり
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