に於ても深くも考えさせられたものがあるようでした。
 しかし、夜が明けると、船の針路がおのずから南に向っておりました。
 駒井甚三郎は、北進策を捨てて、南進を目標とする決心が昨夜のうちに定まったと見えます。
 駒井甚三郎が、北進を捨てて南進策を取ったからといって、信神渡航者のことは亜米利加に於ても、すでに二百年の昔のことです。今の亜米利加は昔の亜米利加でない、富み栄えて張りきっている。いまさら駒井がその後塵を拝して、前人のすでに功を成したその余沢にありつこうなどの依頼心はないにきまっている。いわばこれを一時の梅花心易《ばいかしんえき》に求めて、当座の行動の辻占に供したに過ぎまいと言うべきですから、従って、針路こそ南に転向ときまったけれども、目的がきまったわけではない。内外共に未《いま》だ解決せざる問題が充ち満ちている。
 前途に倍加する多事多難を予想せずにはいられますまい。

         三十四

 すべての人が、その領土に於て、その事を為している。たとえば、お銀様は山に拠《よ》り、駒井甚三郎は海により、竜之助は夢の国に生きている。その他の者は、多くはみな現実の国に於て生き、おのおのその能によって働いている。自ら自覚するとせざるとにかかわらず、おのおのの生きる立場に於て生かされているというわけで、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵の如きでさえも、足の使命によって、まだ捨てられないものがあるのに、ひとり道庵先生だけが、この頃に至って、甚《はなはだ》しく生活の空虚を感じて、悲観に落ちていると言えば、知らないものは嘘だと言うかも知れないが、事実それに相違ないのは不思議です。
 何故に道庵が生活に空虚を感じ、人生の悲観に落ちかかっているかといえば、その内容は複雑怪奇で、一概には言えないけれども、連合いを亡くしたということも、その有力な原因の一つには相違ないのです。
 連合いといっても、俗に枕添《まくらぞい》のことではない。吾人は道庵先生に親炙《しんしゃ》すること多年、まだ先生に糟糠《そうこう》の妻あることを知らない。よってこの先生が、枕添の有無《うむ》によって、生活観念に動揺を将来したというべきは有るべきことでない。連合いということは、この場合に於ては、同行者の意味に過ぎないのであって、彼はこの木曾道中の長い間、ドンキホーテ氏のサンチョー氏に於けるが如く、栃面屋《とちめんや》氏の北八氏に於けるが如く、影の形に於けるが如く、相添うて来たところの、いわゆる鎌倉の右大将米友公を失っている。失ったのは亡くなったのではない。あの男を胆吹山へ取られてしまっているが、その後の死生のほどもわからない。米友公を捨て、悍馬《かんば》の女将軍女軽業興行師のパリパリに乗替えたが、こいつが意外に道草を食いはじめて、自分よりは藤原の伊太夫なにがしという財閥へ附きっきりで、てんで道庵の方などへは見向きもしない今日この頃の形勢である。道庵先生としては、それをひが[#「ひが」に傍点]んでいるわけではない。誰にしても、十八文の貧乏医者を取持つよりは、当時きっての分限《ぶげん》の御機嫌を取ることの有利なるに走るのは人情だから、いまさら道庵が、そんなことにひがみ[#「ひがみ」に傍点]を起しているほどの野暮《やぼ》ではないはずだから、特にそれを悲観しているとも思われません。
 道庵先生が、生活の空虚を感じて、人生を悲観している最大なる理由としては、現在の自分が、徒手遊食の徒に堕しきっているという点にあるらしいのです。前途の旅を急ぐなら急ぐでいいけれど、こうして途中へひっかかって、京都がもう眼の先に控えているのに、進みもならず、退きもならずしているうちに、本来そうあり余るという身代《しんだい》ではないから、懐中が少しずつ寒くなる。懐ろが寒くなると同時に心細くなる。その経済上の理由も一つはあるのです。しかし、その辺は、まかり間違えば金策の大家なるお角さんが附いており、お角さんの背後には、一大財閥が控えているのだから、ずいぶん心丈夫であってしかるべきだが、そこは痩《や》せても枯れても道庵である、財閥にすがるというような卑劣心が兆《きざ》してはならない。御粗末ながら自分の旅は、自分の財布でまかなうよと、意地を張っている。その意地が怪しくなった時は、すなわち心弱くなった時で、これでは旨《うま》い酒も飲めねえが、なんどと感じて来た時に、いささか悲観するかも知れないが、そんなことは今に始まったことではない。いまさら物質的の貧乏を以て生活の空虚なりと、この先生が考えるわけがない。何となれば、貧乏が即ち道庵、道庵が即ち貧乏と、それを一枚看板に今日まで生きて来た先生ですもの。
 江戸にいれば、押しも押されもしない医術本業の公民だが、現在の自分は、徒手遊食の民である、人生に貢献する何事も
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