まいません、御紹介を願いたいものです、今の時節では、紹介を得なければ、よき師に就けません」
「いや、拙者のいま話したのは、門戸を張った学者ではない、しかも、れっきとした幕府の直参《じきさん》なんだから、紹介があったとて、人に教授などの余裕はない人なんだが、あの男は、たしかに英語が出来た、あのくらい出来たのは、当時でも、今日でも、まずあるまい」
「大家ですね、御紹介が願えなければ、お名前だけでもお聞かせ下さい、大家のお名前を承って置くだけでも後学の力になりますよ」
「駒井能登守といってな、幕府の旗本で、なかなか大した家柄なんだが、学生となると我輩などと同格で勉強したものなんだ、その後、甲州勤番支配にまでなったという話は聞いたが、その後の消息が一向わからん」
ここで意外の人から、意外の人の噂《うわさ》を聞いたものだが、この青年にとっては、意外にも、意外でないにも、駒井能登などいう名は全く初耳でありました。
二十六
胆吹王国の留守師団長|青嵐居士《せいらんこじ》は、何と思ったかその翌朝、馬に乗れる三人の青年を庭先近く召集しました。
その中の二人は甲組から、一人は昨日の福井青年であります。この三人を乗馬もろともに庭先へ呼びよせて、次のような命令を下したものです。
「君たち、ひとつこれから春照へ下って、一致するなり、分離するなり、おのおの臨機の処置を取って、山麓いったいを偵察して来てくれ給え、目的は一揆暴動連の行動の如何《いかん》を見ることにあるのだ――彼等の群衆がドノ辺から来て、ドチラの方向へなだれ込むか、だいたいその方向を視察して来てもらいたい。万一、大勢が当方面をめざして進んで来るという形勢が見えた時には、誰でもが、単独でよろしい、早刻にここまで注進をしてもらいたいのだ。もしまた、それほど差迫った形勢が見えない、他方面へ向って進行しつつあるような場合には、報告を急がずともよろしい、だいたい六ツ時頃までに、轡《くつわ》を並べてここへ帰って来るように」
こういう命令を下しているのは、この師団長は、一揆暴動の形勢が他方面へ流出する分には敢《あ》えて意としないが、万一、こちらへ向ってなだれ込んで来る形勢には極力警戒をしなければならない。事実上また、胆吹を目ざしてなだれ込んで来るというような形勢が、最も有り得る形勢であると見られる理由もある。それが、この斥候《せっこう》を放つ所以《ゆえん》なのでありました。
この命令を下しているところへ、急に伝令が一人、本館の方からはせつけて来まして、
「先生、不破様からのお使者が参りました」
「なに、関守氏から使者が来た、早速ここへ通すように」
案内につれて、そこへ風を切ってやって来たのは、ほかならぬがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵です。
すっかり旅の装いが出来ている。しかもその装いは、不破の関守氏がここで用意して行った装束そっくりですから、何物よりもそのいでたちが、まず門鑑として物を言いました。
「ごらん下さいまし、不破様からお手紙をお届け致すようにとの御沙汰で持って参じました」
「それはそれは、御苦労さま」
と言って青嵐居士は、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵が差出す手紙をとって、封を切りながら、三騎の斥候に向って言いました、
「諸君、少し待ち給え、今、この手紙を読み了《おわ》って、それからこの使者の文言《もんごん》を聞いてからの上で」
こう言って乗馬を控えさせて置いて、不破の関守氏からの手紙を、立ちながら読み下しているのを待ちきれず、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵が口走って言いました、
「もし、あんたが青嵐《あおあらし》の親分さんでござんすか」
変なことを口走り出したので、さすがの青嵐居士《せいらんこじ》が、がんりき[#「がんりき」に傍点]の面《かお》を見直しました。そうするとがんりき[#「がんりき」に傍点]が、
「不破の旦那からお頼み申されて参りました、わっしはがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵というしがねえ野郎でござんす、こんた青嵐の親分さんでござんすか……」
お控《ひけ》え下さいましと、本式のやくざ挨拶に居直り兼ねまじき気勢を見て、青嵐居士も全く面くらいましたが、直ちに合点して、
「ははあ、青嵐は拙者に違いないが、親分ではないよ、君は何か間違いをして来たんだろう、親分でも蜂の頭でもない拙者に向って、改まった口上などは無用だ、それよりは早速、君に聞きたいことは、君が逢坂山からここまで突破して来たその途中の雲行きをひとつ、見たまま詳しく話してもらいたい、湖辺湖岸の物騒な大衆がドノ辺まで騒いで、どんな動き方をしていたか、君の見て来たままを、ここで話してもらいたい」
「そいつを話して上げたいんでしてねえ、先以《まずもっ》て磨針峠《すりは
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