一通りの根気で仕あがるものじゃない、やり出した以上は、失望せず、中絶せずにおやりなさい」
「有難うございます――先生も語学の方をおやりなんですか」
青年は、青嵐居士の理解と激励を有難いことに感謝してみると、我々に対してこれだけの理解と同情を持っている人は、勢い、語学に対して相当の理解と同情を持っている人、あるいは相当以上にその実際の知識を持っている人ではないか、それを持ち合わせているとしたら、早速受けて学びたい、という好学的便乗心が早くも青年の胸に兆《きざ》したと見え、透かさずその言葉尻をとらえてみたのですが、
「いいや、僕は無精者で、語学なんぞはようやりません、それに晩学ではね」
と突放されたが、まだ相当脈はあるように、青年には思いきれないものがあると見えて、ひとり言のように、
「ドコか、英学を教えてくれるよい先生はありますまいかね」
「英学のよい先生を求めようとすれば、都会へ出るよりほかはない、長崎とか、大阪とか、江戸とかへ行かなければ、大家はいない」
「大家でなくてもいいんです、ホンの手ほどきだけしてくれる人があれば助かるんです、それから後は、どんなことをしても自分で漕ぎつけてみる決心をしています、先生、あなたは、わたくしに手引をして下さらんでしょうか、お願いです」
青年は、もはや見込んで歎願のところまで来てしまっている。青嵐居士が相当語学に素養のあるものときめてしまって――独断できめてしまって、熱心な就学志願の方へ燃え出して来たので、青嵐居士が迷惑がり、
「飛んでもないことだ、君は我輩を英学者と誤認しているのかね」
「いや、国で承りました、胆吹山へ不思議な人物が集まって、新しい思想の下《もと》に、開墾をはじめているから行ってみろ、君の学びたい外国語なんぞは、さらさら読める学者が、世を拗《す》ねて鍬《くわ》を取って働いているから、語学が学びたければあそこへ行って学ぶべしと言われたから、僕は、わざわざ福井を飛び出して来たんです、どうか僕の熱心に免じて、御教授を願います、今日から一倍の仕事をしろとおっしゃればやります、毎晩でおさしつかえがお有りでしたら、隔晩でもよろしいですから、ぜひとも御教授を願います」
そうせがまれて青嵐居士が、ははあ、なるほどこの青年は、そういう示唆《じさ》を受けて、ここへやって来たのだなと思いました。胆吹王国の主義目的に参加するためではなく、自分の好学の一念から、狭い郷里では求められない、広い日本であっても、当時では容易に求められない語学の先生を、この胆吹王国に於て発見し得るという希望の下に、越前の福井からやって来たのだなと知ることができました。
同時に、そういう心がけを以てここへ参加して来ることは心得違いである、胆吹王国は、そういう志願の人を収容すべきところではない、同志としては異端者である、王国の職員の一人としては叱って諭《さと》すべきではあるが、青嵐居士は、この青年の好学に大きな同情を持ち得られる人でありました。
「いや、無理もない、我輩も若い時分に、そういう語学熱が燃えたですよ、どうかして語学を究《きわ》めたいと熱中してみたが、師がない、本がない、それがために、心ならずも中絶してしまってもの[#「もの」に傍点]にならないで今日に及んでいるが、当時、もし適当の師と書物とが与えられていたならば、今ではひとかどの語学者になっていたかも知れない、その語学熱高潮の当時を顧みてみると、ちょうど今の君と同様に、あらゆるものから学びたがった、ちょっと語学のうつしがあるとか、語学の出来る人があるという噂《うわさ》を聞くと、これがみんないっぱしの大学者のように見えて、走りついて教えを受けようとあせったものだが、さて、本当に出来るというのはなかったねえ、本当に語学の出来たという人は、日本中で五本の指まで行かなかったんだ」
「先生が、そういう語学熱の時代は幾つ頃の時代でした」
「左様、やっぱり君ぐらいの年頃さ――当時、これでも江戸に遊学していたんだ」
「江戸で、その時分の英学者は、どなたでしたかね」
「左様――蘭学で箕作阮甫《みつくりげんぽ》、佐久間象山《さくまぞうざん》などというところが大家だったね、それから黒田の永井青崖《ながいせいがい》というのがなかなか出来た、大阪には緒方洪庵《おがたこうあん》という先生がいたが、それらはみんな蘭学が主で、英学などやろうという者はほとんどなかったが、ただ一人、長崎の幕府の通訳で、森山という人が英語が出来るという評判であった。そういう門戸を張った学者ではなかったけれど、偶然にも我輩は、英学の勝《すぐ》れた友人を一人持っていたね」
「あ、そうですか、その人を御紹介していただけないでしょうか」
「あせってはいけない、それはもう二十年も昔のことだよ」
「二十年ですか……でも、か
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