のだ」
「湖水めぐりですか、洒落《しゃれ》てますね、どうも、がん[#「がん」に傍点]ちゃん儀、めまぐろしい旅ばかりやりつけているものですから、つい八景めぐりなんぞというゆとりがございませんでした、それを旦那が目をかけて、がんりき[#「がんりき」に傍点]を遊ばせて下さる寸法なんですか、有難い仕合せ、持つべきものは親分でございますよ」
「そんな暢気《のんき》な話ではない、君もこのごろの、湖上湖辺の物騒さ加減を知っているだろう」
「百姓一揆《ひゃくしょういっき》とか、検地騒動とかで、えらく騒いでいるようすじゃございませんか」
「だいぶ民衆が騒いで、一帯に不穏を極めているが、ひとつその空気の中をその足で突破してみてもらいたいんだ」
「トッパヒヒヤロでござんすか、この騒ぎの中で、何か踊りをおどれとおっしゃるんでございますか」
「いや、あの中を突破して、向う岸の胆吹山まで行ってもらえばいいのだ、今、絵図面を見せるから」
と言って、不破の関守氏は行李の中から一枚の滋賀県地図――ではない、近江一国の絵図面を取り出してひろげ、それをがんりき[#「がんりき」に傍点]の眼の前に置いて見せました。
「それ、これを見な、ここが逢坂山の大谷で、ここが大津だ、大津から粟津、瀬田の唐橋《からはし》を渡って草津、守山、野洲《やす》、近江八幡から安土、能登川、彦根、磨針《すりはり》峠を越えて、番場、醒《さめ》ヶ井《い》、柏原――それから左へ、海道筋をそれて見上げたところの、そらこの大きな山が胆吹山だ、つまり、これからこれまでの間を、お前に突破してみてもらいたいんだ」
「そう致しますと、つまりこの逢坂山から出立して、湖水の南の岸をめぐって、胆吹山まで歩いてみろ、とおっしゃるんでございますな」
「そうだ」
不破の関守氏は、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵に向って胆吹マラソンのコースをまず説明して置いて、それから使命の内容をおもむろに次の如く述べました。
「いいか、君のその早足で、この間を突き抜けて通りさえすればいいようなものだが、通りがけに、できるだけ沿岸の観察をしてもらいたい。観察といっても風景や人情を見ろというのではない、昨今の民衆の暴動がドノ程度までに立至っているか、百姓一揆共が、ドノ方面に向って行動し、ドノ方向に向って合流しているか、また主力はドノ地点に根拠を置いて群がっているか、その辺を見届けられる限り見届けて、深入りをする必要はないぞ、通りいっぺんでよろしいからそれを偵察しながら胆吹山まで行ってもらうのだ。その他、何に限らず、途中で眼の届く限りは見届けるがよろしい、たとえば、一揆《いっき》の首を振っているのはどんな人物で、役人たちが一揆の食止めの手配、そんなこともわかればわかるだけ見て置いて、そうして胆吹山まで、なるべく早く到着してもらいたい。見るには、いくら細かに見てもいいが、深入りは断じていけない」
「合点でございます、つっ走るだけの御用なら、当時、がん[#「がん」に傍点]ちゃんに限りますよ」
と、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、いささか鼻を白《しら》ませてせせら笑いました。
字を書けの、歌を詠《よ》めのと言われては、がん[#「がん」に傍点]ちゃんもいささか凹《へこ》むだろうが、歩けと言われる分には本職です。それを特に鼻にかけてせせら笑ったのは、せっかくがん[#「がん」に傍点]ちゃんを見立てた御用としてはおやすきに過ぐると軽蔑したわけではないので、実はこの使命の中には、相当危険状態が含まれていることを、がんりき[#「がんりき」に傍点]はいささか予想したものですから、それで、われと我が身をせせら笑ってみたもので、不破の関守氏にはどうもその内容がよくわからないから、
「何事にせよ、事を侮《あなど》ってかかってはいかん、この時節だから用心はドコまでも用心をして……」
関守氏から本格的に戒められて、がんりき[#「がんりき」に傍点]がまたテレました。がんりき[#「がんりき」に傍点]がたった今、危険状態を予想してせせら笑ったというのは、それは、自分が兇状持ちだという思い入れがあったからです。しかし、この野郎の兇状持ちは今に始まったことでない、海道という海道を食い詰めている金箔附きなので、いまさら、無宿を鼻にかけてみたってはじまらないのであるが、ごく最近に於て、このコースで生新しい負傷をしている、指のことは問題外としても、草津の宿で、轟《とどろき》の源松《げんまつ》という腕利《うでき》きの岡っ引に少々|胆《きも》を冷やされているところがある。お角さんの厠《かわや》まで逃げ込み、なおまた大谷風呂の風呂番にまで窮命させられているのは、つまりその祟《たた》りである。そのことを思い出してみると、自分ながらくすぐったいから、それで、おのずから鼻が白まざ
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