るを得ない。これから再び取って返して、あのコースを行くのは、轟の源松の縄張中へ、わざわざ、からかいに出直すようなものであってみると、「なあに、タカの知れた田舎岡っ引に、がんりき[#「がんりき」に傍点]の年貢を納めるにゃ、まだちっとばかり早えやい」というつまらない鼻っぱりが出て、それでいささかむず痒《がゆ》くなって、せせら笑ってみたまでのことです。
 そんなことを知らない不破の関守氏から、まともに戒められて、がんりき[#「がんりき」に傍点]が、
「時に旦那、御注意万端ありがたいことでござんすが、突走れ、突走れとばかりおっしゃって、かんじん[#「かんじん」に傍点]の御用向のほどが、まだ承ってございませんでしたね。いったい、胆吹山へ行って、誰に会って何をするんでござんすか、ただ湖岸《うみぎし》を突走って、胆吹山へ行きつきばったりに、艾《もぐさ》でも取ってけえりゃいいんでござんすか」
「そこだ」
と不破の関守氏が少しはずんで、
「いいか、胆吹山へ着いたら上平館《かみひらやかた》というのをたずねて行くんだ、そこに青嵐《あおあらし》という親分がいる」
「ははあ――青嵐、山嵐じゃないんですね」
「よけいなことを言うな。青嵐と言えばわかる、その青嵐という親分にお目にかかって、この手紙を渡すのだ、委細はこれに書いてある、そうして、その親分に向って、君が途中見聞したことの一切を報告するんだ、いま言ったような百姓一揆の動静だの、役人方の鎮圧ぶりだの、見たままの人気をすっかり青嵐親分に話して聞かせろ、つまり、それだけの役目なのだ」
「わかりました、よくわかりました」
「わかった以上は、事はなるべく急なるを要するから、これから直ぐに出立してもらいたい」
「合点でござんす」
「さあ、これを持って行き給え、己《おの》れに出で、己れに帰るというやつだ」
と言って、不破の関守氏は、因縁つきの胴巻を引きずり出して、そっくりがんりき[#「がんりき」に傍点]に授けたものですから、またしてもがんりき[#「がんりき」に傍点]をテレさせてしまいました。
「恐縮でげす」
「それから、旅の装いとしては、拙者のものをそっくり着用して行ったらいいだろう、この脚絆《きゃはん》なんぞも銭屋で新調したばっかりのものだ、ソレ、手甲、それ、わらじがけ、それ、笠の台――ソレ、風呂敷、ソレ、手形、こいつを大切に持って行きな」
 こうして不破の関守氏は、その夜にまぎれて、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵を胆吹山に向って追い立ててしまいました。

         二十二

 がんりき[#「がんりき」に傍点]を追い立てたその翌日、不破の関守氏は、明日、客をするからと言って、大谷風呂の奥の一棟をその用意にかからせたのです。不破の関守氏が肝煎《きもいり》となって、何か相当の客をこの一棟へ招くらしい。しかも、その前準備の忙がしいにかかわらず、たいした団体の客を迎えるというわけではなく、ほんの少数の客で、しかも密談――という申入れなのでありました。
 それでも、奥の一棟を借りきって、しかも、なおさら宿の者をてんてこまいさせたというものは、明日乗込んで来るといったその客が、その晩おそくなって、ここに御入来ということになったからです。
 その晩、お客は到着したに相違ない。けれども、そのお客の何ものであったかということは、誰もほとんど気がついたものはありません。その客にはお供が二三ついて来たけれど、本客というのは、もう相当の年配で、しかるべき大家《たいけ》の大旦那の風格を備えたお人であったということは、女中たちも言うのです。
 問題の、奥の間の床柱に座を占めた招待の客というものを見ると、さまで怪しむべきものではない、これぞお銀様の父、すなわち藤原の伊太夫でありました。附いて来たのは、番頭の藤七たった一人でした。
 だが、ほどなく、これに追いついてやって来た人は、宿の者皆の注意を引かずには置きません――それは、お角さんが至極めかし込んで、上方風の長衣裳で、駕籠《かご》から出て、いささか上気した意気込みで、
「あの、不破の関守さんとおっしゃるお方を訪ねて参りました」
「はい、お待兼ねでいらっしゃいます、どうぞ、こちらへ」
 お角さんは、案内につれて、おめず臆《おく》せず送り込まれたのは、伊太夫の座敷でなく、不破の関守氏の部屋なのでした。
 多分、不破の関守氏とお角さんとは、初対面のはずです。
 すべての事態を総合して見ますと、伊太夫お角さんの一行は、昨日あたり竹生島から帰りついたに相違ない。昨日の外出で、不破の関守氏は本陣をたずねて、伊太夫が立帰ったことをたしかめた上で、改めて来意を述べたものらしい。
 その結果として、お銀様が本陣を訪問するのも人目に立ち過ぎるし、かつまた、本人そのものが容易なところでは承引
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