と思いました」
「相手というのは?」
「お風呂からお上りの、早速、紛失物がある、拙者のここへ差置いた胴巻がない、金子が見えぬ――なんぞと大さわぎがおっぱじまると待構えておりましてな、そうおいでなすった時にはザマあ見やがれと、この尻を引っからげて、片手六法かなんかで花道を引っこみの寸法で、仕組んで置いた芝居なんでございますが、相手がそう受けてくれません、本舞台の方でウンともスンとも文句が起らねえから、揚幕の引込みがつかねえ、こいつぁ相手が悪いなあと思いましたよ」
「ふーん、こっちが騒がなかったら、かえって首尾がいいとは思わなかったか」
「ところが違います、いけねえ、こいつは出直しと思いました」
「貴様は、なかなかくろうと[#「くろうと」に傍点]だ」
「へ、へ、へ、どうか先生、お弟子にしておくんなさいまし、わしゃ実は、甲州無宿でござんして、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵とやらいうしがねえやくざ野郎の成れの果て――と言いてえが、まだ果てまではちっと間のある、中ぶらりんのケチな野郎でござんすが、なにぶんお見知り置かれまして」
 変な言いぶりになってきた、漫然お茶らかしているものとも見えない。いったい、不破の関守氏をこの野郎は何と見て、こんなに、上ったり下ったりしているのか、次第によっては下へさがって本式やくざ[#「やくざ」に傍点]附合いの作法によって、親分子分の盃でも受け兼ねまじき真剣さも見て見られようというものです。関守氏はこいつ只の鼠ではないと、しょてから睨んでいたに相違ないが、さりとて大鼠と怖れてもいないらしい。

         二十一

 その翌日になって、米搗きが急に昇格して、関守氏附きの直参《じきさん》となりました。
 不破の関守氏は、この新たに得た鶏鳴狗盗《けいめいくとう》を引きつれて早朝に宿を出たが、どこをどううろついて来たか、午後になって立戻ると早々、また風呂へ飛び込んで、こんどは水入らずにこの男に流させもし、同浴もしながら、主従仲のいい問答をはじめました。
「がん[#「がん」に傍点]ちゃん――」
 不破の関守氏は、三公とも、百どんとも言わず、改めてがん[#「がん」に傍点]ちゃんの名を与えて、この従者を呼ぶのです。
「何ですか、旦那様」
と、がん[#「がん」に傍点]ちゃんが抜からぬ面《かお》で答える。
「貴様は手の方も長いが、足の速いにも驚いたよ」
「御冗談を……手なんぞは長いにもなんにも有りませんよ、とうの昔にブチ切られちまったんですから」
「でも、胴巻を見ると長くなる」
「旦那、皮肉をおっしゃっちゃいけません」
「それから、女を見るとまた長くなる」
「旦那、そう、いつまでもいじめるもんじゃございませんよ、全く、旦那にかかっちゃ、手も足も出ねえ」
「それはそうと、がん[#「がん」に傍点]公、お前の手の長い方はもう御免だが、足の速い方を見込んで一つ頼みがあるんだが」
「水臭いことをおっしゃっちゃいけません、頼みがあるのなんの、こうなってみりゃ、主従の間柄じゃございませんか、旦那がやれとおっしゃれば、火水の中へでも飛び込んでお目にかけますよ」
とがんりき[#「がんりき」に傍点]の百が、相変らず人を食った面で答えました。返事をしながらも、その一本の腕をもって、不破の関守氏の背中を流すことは器用を極めている。
「そう言ってくれるのが頼もしい、では、一つ命令を下すぞよ。但し、ここでは下せないから、風呂から上って、ゆっくり下すから、ひとつ、この命令によって、お前、その足に馬力をかけてやってみてくれ」
「合点《がってん》でございます、がん[#「がん」に傍点]ちゃんの足を見込んでお頼みとありゃ、後へは引きません」
「よし、では上ろう、御苦労御苦労」
 かくてこの主従は風呂から上って、自分の部屋へ帰りました。
 不破の関守氏は、部屋へどっかと安坐すると、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵を前に坐らせて、自分は床の間から行李《こうり》を引寄せながら、
「時にがんりき[#「がんりき」に傍点]――」
 どうも、呼び名がまちまちで困る。がん[#「がん」に傍点]ちゃんと和《やわ》らげてみたり、がん[#「がん」に傍点]公と角《かど》ばったり、またがんりき[#「がんりき」に傍点]と本格に呼びかけたりするので、かなりめまぐろしいが、
「旦那、御用向のほどを承りましょう」
 しかるに、がんりき[#「がんりき」に傍点]の方の尊称は旦那で統制されている。この男が、関守氏を先生とも呼ばず、親分とも言わず、旦那で立てていることが、かえって空々しいくらいのものだが、この際、この人柄では、旦那呼ばわりが、まず適当というところであろう。そこで関守氏も旦那らしく砕けて、
「実は、がん[#「がん」に傍点]ちゃん、君にひとつ、湖水めぐりをやってもらいたい
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