躍が許されないところに、清新があり得ようはずがない。意気|溌溂《はつらつ》たる青年は、その意気の溌溂を、どこに行ってもハケ口を見出すことができないから、滔々《とうとう》として不良に堕《お》ちるよりほかに行く道がない。その硬なるは喧嘩と遊侠に鬱屈を洩《も》らし、その軟なるは花柳に放蕩《ほうとう》するよりほかに行き場所がないではないか。
うんで、つぶれて、腐りかかっている徳川末期の泰平の空気――なるほど、西南で又者が騒いでいるというも無理はない。事実、これは何とかしなければ仕方がない。この時代を何とかしなければ仕方がない。この自分を何とかしなければ仕方がない。
それでも、勝のおやじは、息子という傑作を残したけれども、おれのしたことは放蕩が放蕩を産んだだけだ。
何とかしなければならない。
神尾主膳は今更、身に火がついたように身ぶるいをしました。
神尾主膳には、特に尊王佐幕のイデオロギーがあるわけではなく、世道人心に激するところがあるというわけではないが、何ぞ知らん、やっぱり時代の潮流の圧迫というものを身に受けているのでありました。持って生れた、なにがしかの血性というものが、磁石に吸い寄せられるように、物理的にその大きな潮流に吸い寄せられていると見れば見られるのでありました。そうして、意識せずに、考えが深刻に進みつつある時であります、次の間から、およそ時代とはかけ離れたおっちょこちょい[#「おっちょこちょい」に傍点]の声として、
「今日は、よいお天気で……殿には、御機嫌いかがにあらせられまするや、かねての大望、意志と教養の御著作――さだめて見事に御進行のことと拝察――鐚《びた》儀、芸娼院を代表してお見舞に罷《まか》り出でました」
「鐚か――」
こういう奴が来たので、神尾がうんざりしました。
六十
事を意識せずして深刻に考えたり、絶望に傾いたりする時、このおっちょこちょい[#「おっちょこちょい」に傍点]が来ると、とにかく、気分が発散したりする。善友も、悪友も、このところでは、おたがいにあんまり近づかないことになっているが、こいつばかりは臆面なくやって来るものですから、神尾も気紛れに相手になっている。なんらの理窟があるのではない、こいつの面を見て、およそ時代離れのした恥知らずをながめると、気分が発散しないという限りもない。
「鐚か――まあ、入
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