八

 湖面が再び白殺《はくさつ》されて、夜が明けたのか、月が出戻ったのかわからないような気分のうちに、大船も、早手も、みんな隠れてしまっている。その中から、不破の関守氏のいい心持になった懐古の饒舌が続いている、
「いい歌です、ともかく大湖の面《おもて》に船がかりして、ああして安定しているあの大船を見ると、まずこの歌が心頭に上って来ます、単にいい歌とか悪いとかいう批評を超絶した歌です、大きな鳴動であり、大きな姿勢ではありませんか、古今無双です、まさに天地の間《かん》に並び立つものがありませんな」
 関守氏が自己陶酔的に感歎している。その傍らから、お銀様の傲然たる声音《こわね》で、
「それは、かとりの海――この琵琶湖のことじゃありません、琵琶湖は大きいのなんのと言っても、涯《かぎ》りの知れた湖です、かとりは海ですからね」
「なるほど……そうおっしゃられると、拙者もそこに、かねがねの疑問を持っていたのです、お言葉通り、かとりの海と人麿《ひとまろ》は詠みました、かとりといえば、たれしもが当然、下総《しもうさ》常陸《ひたち》の香取《かとり》鹿島《かしま》を聯想いたします、はるばると夷《えびす》に近い香取鹿島の大海原《おおうなばら》に、大船を浮べて碇泊した大らかな気持、誰もそれを想像しないわけにはいかないのですが、拙者はこの歌を酷愛する一人であるにかかわらず、この歌の持つ空間性に、まだ疑いが解けきれないというのは、第一、柿本人麿《かきのもとのひとまろ》という人が、あの時代に、東《あずま》の涯《はて》なる香取鹿島あたりまで旅をしたことが有るかないかということです。その次には、下総香取の海とすれば、香取のどの地位に船を碇泊せしめたかということです。下総の香取に大船津《おおふなづ》というところがあるにはありますが、仮りにあの辺に船を回漕せしめたとしても、その船は、どういう船の持主によって、ドコの浜から回航されたかということ……一説によりますると、ここのいわゆるかとり[#「かとり」に傍点]の海というのは、下総常陸あたりをあげつらうべきものでない、大津の宮に近い湖岸の一角にかとり[#「かとり」に傍点]の浜、或いはかとり[#「かとり」に傍点]の海と呼ばれた地面、或いは水面が、その当時存在していたのだ、ということを言いますが、或いはそれが正しいかも知れません。そういうことは、池田
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