上に、句読の段落も、主客の文法も、乱暴なものだ。だが、まずいうちに文字に頓着しない豪放の気象が現われないでもないから、神尾は辛抱して、
「文武を以て農事と思うべし」などと聖人のようなことを言い、「庭へは諸木を植えず、畑をこしらえ農事をもすべし、百姓の情を知る、世間の人情に通達して、心に納めて外へ出さず守るべし」などと教訓し、おれも支配から押しこめに会って、はじめは人を怨《うら》んだが、よく考えてみると、みんな火元は自分だと観念し、罪ほろぼしに毎晩法華経を読んで、人善かれと祈っているから、そのせいか、このごろは身体《からだ》も丈夫になって、家内も円満無事、一言のいさかいもなく、毎日笑って暮らしている、というようなことで――読んで行くと、自分は箸にも棒にもかからぬ放埒者《ほうらつもの》だが、これでも、人を助けたり、金銀を散じたりしたこともある、その報いか、子供たちがよくしてくれる、ことに義邦《よしくに》(麟太郎)は出来がよくて、孝心が深く、苦学力行しているから、おれは楽隠居でいられる、おれがような子供が出来た日には両親は災難だが、子孫みな義邦のように心がけるがいいぜ、と親心を現わしたところもあるし、女の子は幾つ幾つになったら、何を学べ彼《か》を習えと、たんねんに教えてみたり、そうかと思えば、序文は一つの懺悔になっていて、その結びが、
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「子々孫々ともかたくおれがいうことを用ゆべし先にもいう通りなれば之《これ》までもなんにも文字のむずかしい事は読めぬからここにかくにもかなのちがいも多くあるからよくよく考えてよむべし天保十四年寅年の初冬於鶯谷庵かきつづりぬ
[#地から6字上げ]左衛門太郎入道
[#地から1字上げ]夢酔老」
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五十四
さて、それから本文にうつると、冒頭に何か道歌のようなものを二三首、書きつけたばかりで、端的に自叙伝にうつっているから、文章はまずく、文字は間違いだらけだが、率直に人を引きつけるものがある。
その、まずい文章と、読みがたい文字、句読も段落もない書流しにくぎりくぎりをつけて、神尾はともかくに独流に読みつづけて行きました。
これはもちろん、夢酔老というなまぐさ隠居の筆として読まないで、不良青年|男谷小吉《おたにこきち》の行状記として読んだ方が面白い、と神尾が思いました。
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