のが即ち、今いう勝麟太郎の父になる。隠居してから夢酔と号した。この書の標題の「夢酔独言」の名のよって起るところである。なお仔細に系図書の割注を読んでみると、
「惟寅は男谷平蔵の三男、聟養子《むこようし》となって、先代元良の女信子に配す、嘉永三庚戍年九月四日卒四十九歳」とある。
存外|夭死《わかじに》だが、実家の男谷というのはどんな家柄だ、四十一石の身上へ養子に来るくらいだから大した家柄ではあるまい、とやっぱり軽蔑を鼻の先に浮べて、神尾が男谷の系図書の方を読んでみて、
「ははあ、こいつはまた先祖は士分ではない、検校《けんぎょう》だ――検校が金を蓄《た》めて小旗本の株でも買ったんだろう」
その男谷の初代、検校廉操院というのに、三人の男の子がある。その三男の平蔵にまた三人の男の子がある。なるほど、長男が彦四郎、次男が信友――ははあ、これが講武所の下総守だな、こいつの剣術はすばらしい、なんでも話に聞くと、上泉伊勢守《かみいずみいせのかみ》以来の剣術ということだ。して三番目が初名小吉――即ち左衛門太郎夢酔入道、今の評判の麟太郎の父なんだな。してみると男谷下総は麟太郎の伯父《おじ》になる、剣術の家柄というのも無理はない……と神尾がうなずきました。
神尾の眼で見ては、四十石の家柄だの、検校出の士族だのというものは冷笑以外の何物でもないが、その一門に男谷下総守信友を有することが、侮り易《やす》からずと感じたのです。いかに不感性の神尾といえども、男谷の剣術だけは推服のほかなきことを観念しているところに、この男もまた、その道に相当の覚えがあるものと見なければなりません。
そんなような前置で、神尾は「夢酔独言」の序文を読みはじめました。
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「鶯谷庵独言
おれがこの一両年始めて外出を止められたが毎日毎日|諸々《もろもろ》の著述物の本軍談また御当家の事実いろいろと見たが昔より皆々名大将勇猛の諸士に至るまで事々に天理を知らず諸士を扱うこと又は世を治めるの術治世によらずして或は強勇にし或はほう悪く或はおこり女色におぼれし人々一時は功を立てるといえども久しからずして天下国家をうしない又は智勇の士も聖人の大法に背く輩《やから》は始終の功を立てずして其身の亡びし例をあげてかぞえがたし――」
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読み出して神尾がうんざりせざるを得ません。文章がまずい
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