」
「別な人とは誰だ」
「そこにいるよ」
「どこに」
「そこに」
「誰もいないではないか」
「いるよ、たった一人、そこに立っているのが見えないか」
「見えない――」
「幽霊ではないか」
「戯談《じょうだん》を言うな、机竜之助だぞ」
「机竜之助がどうしたというのだ」
そこで、一同が水をかけられたような気分になったが、それもホンの通り魔、我にかえって見ると、斎藤一もいなければ、机竜之助なるものもいない。
二人は簡単なあいさつ[#「あいさつ」に傍点]だけで、早くも奥の間に向って消えてなくなったものでしょう。
これに芸術談の腰を折られた一同は、思い出したように、
「隊長の帰りが遅いではないか」
これが、彼等の本来の不安であったが、その不安な気分を紛らわす間に、話の興が副産の芸術談に咲いてしまったのを、また取戻したという形です。
そこへ、今度は、表門から、極度の狼狽《ろうばい》と動顛《どうてん》とを以て、発音もかすれかすれに、
「た、た、た、大変でござりまする、御陵衛士隊長様が殺されました、伊東甲子太郎先生が斬られて、七条油小路の四辻に、横たわっておいでになります、急ぎこの由を高台寺の屯所へお知らせ申せとのこと故に、町役一同、馳《は》せつけて参りました」
これは、通り魔の叫びではない、まさしく現実の声で、屯所の壮士一同の不安の的を射抜いた驚報でしたから、
「スワ……」
と一度に色めき立って、押取刀《おっとりがたな》で駈け出そうとしたが、
「諸君、そのまま駈け出しては危険だ、裏には裏がある」
「もっともだ」
と、逸《はや》る心を押鎮めて、
「さてこそ新撰組の術中に陥ったのだ、これは隊長を殺した上に我々を誘《おび》き出そうとする手段か、しからずば隊長を殺したと称して、我々を乱す計略に相違ない、使者の者を留めて置いて、再応仔細を糾問《きゅうもん》すべし」
使者というのは七条油小路の町役人であって、その申告は、目のあたり見て来ているのだから間違いはない。
「たしかに御陵衛士隊長伊東甲子太郎様が、何者にか殺害せられ、御紋章の提灯をお持ちになったままで、私共かかりの七条油小路四辻に無惨の御横死でござりまする」
「して、それを誰が見届けた」
「市中巡邏《しちゅうじゅんら》のおかかりからの仰せつけでござります」
「巡邏というのは新撰組のことだろう」
「左様でござります」
「して
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