一城壁をなす人物なのだ。だから、話せば話もわかる男で、存外、御《ぎょ》し易《やす》いのだ。なにも彼を強《し》いて敵に取るには及ばない。相当に追従して置いて、適当の時機に利用するもまた妙ではないか。
 伊東甲子太郎は、こんなことを胸中に考えて、ほくそ笑みつつ、ふと手を掲げて、己《おの》れの持った提灯をかざして見ると、また一段と肩身の広いことを感ずる。
 畏《かしこ》くもこの御紋章が物を言うのだ。こうして深夜、大手を振って、昨今の京洛を闊歩できるというのも、一つはこの御紋章が物を言うのだ。おれを快しとしない近藤一味といえども、この提灯に仇《あだ》をなすことはできない。
 かくて伊東は、満ちきった気分を以て橋を渡りきって、いよいよ再三問題の、南側の火事場あとの板囲いのところへさしかかったのであります。
 これより先、この板囲いの中には都合五人の黒いのが隠れておりました。
 抜身の槍の穂先が、尖々《せんせん》と月光にかがやいている。刀の白刃が、鞘《さや》の中で戞々《かつかつ》と走っている。五人十本の腕が、むずむずと手ぐすねで鳴っている。
 その間へ、別の方面の板囲いの透間を押分けて、また一つの黒いのが這《は》い込んで来ました。見ると、それが、さきほどの斎藤一です。忍び寄った斎藤は、この五人の鞘走りの一団へ近づいて、
「大石――」
「誰だ、斎藤か」
「来たぞ、来たぞ、いよいよ来たぞ」
と腹這いながら斎藤が言いました。
「来たか」
「それそれ、あの通り、得意満々たる千鳥足、御自慢の御紋章の提灯が何よりの目じるしだ、そらそら、今、そこをその板囲いの前を通る」
「御参《ござん》なれ!」
「やっ!」
と、大石鍬次郎が突き出した手練の槍、板囲いの間からズブリと出て、
「あっ!」
と、たしかに手答えがあった。表から見ると、無惨や伊東甲子太郎が、肩から首筋を貫かれて無念の形相《ぎょうそう》――血が泉のように迸《ほとばし》る。
「それ辰公――やっつけろ」
 首を突き貫かれて、よろめく伊東甲子太郎に向って、真先に板囲いの中から跳《おど》り出して斬ってかかったのは、元の伊東が手飼いの馬丁《べっとう》。
「隊長、済まねえが、わっしに首をおくんなさい」
「貴様は辰だな!」
 槍を掴《つか》んだ伊東の眥《まなじり》が裂ける。こいつは、先頃まで、自分が引立てて馬丁をさせて置いた辰公だ――八ツ裂きにすべき
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