せい》もあって、一燈園なり、大本教へなりへ走って行ってみる、そこで教育もされたり、失望もしたりして帰って来る、一種の流行性を帯びた人種である。居つけば一躍して甲種へ昇格するが、水に合わないと早速飛び出して、悪評を世間にふり蒔《ま》いて歩きがちなのがこの人種である。
その晩になると、果して、この青年が青嵐居士の許《もと》へ話しに来ました。彼は、特に師団長のお目に留まったことを光栄ともし、よろこびともして、晩飯が済むと逸早《いちはや》く押しかけて来たものです。
「君は蘭学をやっているのかね」
昼のつづきで、青嵐居士が会話のきっかけを作って青年に与えると、青年は、
「いや、あれは蘭学ではないのです、英学なんです。蘭学はもう古い、将来は英学をやらなければならないと言われたものですから……」
と申しわけをしました。
「そうか、英学だったかね、見せ給え、もう一ぺん、あの本を」
青嵐居士が、青年のふところを見込んでこう言いますと、青年が、
「これでございますか」
またしても、青年はふところから、日中ころがり出たところの部厚な小冊子を再び取り出して、青嵐居士の前へ提出しました。
してみると、この青年は、昼夜離さず、右の小冊子をふところにしているらしい。青嵐居士もそう気取《けど》ったから、そこで、再提出を求めたものに相違ない。つまり、蘭学か、英学か、そこまでは見究めなかったけれども、たしかに外国語の辞書であることは、青嵐居士が最初から認めたところのものでありました。
辞書というものは、語学生はふところから放さないものである。今晩、来訪して来たのを見た時も、この青年のふところがふくらんでいることに於て、青嵐居士は早くも、この青年が辞書をふところにして来ているなと見て取ったものですから、この提出を求めたのです。
青嵐居士は果して外国語の素養があるかどうかは知らないが、青年の提出した冊子を受取って、一応調べてみました。辞書といったところで、当時スタンダードもコンサイスも有るべきはずはない、有るべきはずがあったにしたところが、この青年などの手に渡るべき品ではない、そこで、青嵐居士が取り上げた辞書も、筆記物の辞書でありました。誰か、しかるべき人が所持している日本に数冊という極めて貴重の外国本の、又写しの又写しの、そのまた又写しの何代かの孫に当るべき薄葉《うすよう》の肉筆写本を、こ
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