の青年が持っているのであります。
 筆写本だからといって、本人が読めて、そうして筆写するならまだいいが、読めないで形によって写すのだから、難渋なことは言わん方がない。だから、蘭文学だか、英文学だか、一見しただけでは誰だって判別がつき兼ねる。まず、横文字の辞書と見て取って、蘭学をやるのかと詰問した青嵐居士に、蘭学と英学の区別がつかなかったというわけではない。蘭字といえば蘭字、英字といえば英字、ずいぶん怪しげな辞書ですが、辞書は辞書に相違ないし、それをふところにしていることによって、相当好学の新しい青年であることを認めて、青嵐居士が会話を進めました――
「君はドコで英学をやりました」
「越前の福井で……ホンのちっとばかり、いろはだけなんです」
「越前の福井――君は福井の人なんですか」
「エエ、福井が僕の郷里なんです」
「福井に英学の先生がいましたか」
「エエ、その、なんです……」
 青年は、少々ドモリながら質朴に受け答える。なかなかいい気の青年だと、青嵐居士が見て取って、秋の夜の当座の話し相手とすることになりました。

         二十五

「福井でも、一部の青年の中には、語学熱が相当盛んでございます」
「そうだろう、福井はあれでなかなか進取の気象に富んだところだ」
「我々の先輩に橋本景岳という人がございまして」
「なるほど――あれは天下の人材でしたね、惜しいことをしたものです」
「それから、熊本から横井小楠《よこいしょうなん》などいう先生も見えまして……」
「その事、その事、いったい春岳侯が非凡な殿様だから、人材の吸収につとめられる」
「そういうような感化で、一部の青年には、なかなか新知識の吸収慾が強いのでして、僕もそれにかぶれた末輩の一人なんですが、どうも思うようにいきません」
「まあ、よろしい、青年時代には、好奇にしろ、流行にしろ、新しい方面へ向いてみることも悪くない」
 青嵐居士が、新しい青年に理解を持っていてくれることが、この青年の意気を鼓舞するらしい。青年は知己を得たりというような勇みをなして、
「そういうわけで、僕は英学をやりたいんです、けれども、先生がありません、本がありません、人から借りて、ようやくこの字引を写して、これと朝晩、首っぴきをしているだけなんですが、こんなことではなかなか追いつかないんで困っています」
「なかなか、語学なんていうものは
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