とて、上の如き運命が、今や盛んに米友の上を見舞いつつあるとは、お雪ちゃんはもとより、お銀様といえども想像の限りではありませんでした。
 そこで、二人とも、米友のことについては、ちょっと暗い思いをしましたけれども、お銀様は忽《たちま》ち平静に返って、お雪ちゃんに向って言いました、
「では、お雪さん、頼まれて下さいね、米友さんがいなければ誰でもいい、誰かに附添ってもらって、乗物でおいでなさい」
「いいえ、長浜までは三里の道でございましょう、わたし、そのくらい歩くことはなんでもございません」
「いいえ、それには及びません、乗物といっても、馬はあぶないから、駕籠《かご》でいらっしゃい」
「いいえ、徒歩《かち》で結構でございます」
「それはいけません、そうしてね、着物も着換えていらっしゃい、髪も結い直していらっしゃい」
「有難うございます」
「あの戸棚をあけてごらんなさい、二重の乱れ箱の下の方が、あなたのためにこしらえて置いた着物です」
「まア――」
「それから、お雪さん、あの鏡台をここへ持出して下さい、わたしが、あなたに髪を結って上げます、上手ではありませんけれど」
「まあ、お嬢様、それはあんまり勿体ないことでございます」
「いいえ、かまいません、わたしも久しく女の髪を手がけませんから、変なものが出来るかも知れませんが、結わせて下さい」
「では、お言葉に従います」
 この女王の言うことは、高圧である。好意をもって言ってくれるにしてからが、命令とよりほかは誰にも響かない。お雪ちゃんといえども、それ以上、辞退する力はない。
 ほどなく鏡台の前へ坐らせられたお雪ちゃんは、申しわけのように、
「あれから、わたしは髪を結んだことがございません、いつもこの通りにしておりますから、もう、すっかり癖がついてしまって、とてもお結いにくいことでございましょう」
 ここにお雪ちゃんが、あれからというのは、ドレからであろう。お雪ちゃんがこういうふうにして、現代式に――或いは、平安朝式に結び髪にして後ろへ下げたなりの風俗は久しいことでありました。それがまた、女王様の手にかかって新たに結び直されようとする。この女王は果して、この少女の髪を、いかように扱うつもりか知らん。それは任せるだけであって、問うことを許されない。許されないわけではないけれども、お雪ちゃんはまぶしくて尋ねられない。その座へ坐らせられてみると、髪を結うことはおろか――首を斬ると言われても反問はできない。そんなような心持でお雪ちゃんが神妙に髪結の座に直っていると、後ろへ廻ってお銀様は、梳《す》き手《て》のするように、櫛《くし》を入れて、癖直しにかかりながら、
「今日は島田に結んで上げましょう」
「まあ――」
 お雪ちゃんは、我知らず顔が真赤になりました。
「お雪さん、あなたは島田よりか桃割《ももわれ》が似合うかも知れない、桃割に結ってみて上げたいとも思うけれど、それではあんまり子供らしいから」
 お銀様の手先の存外器用なことにも、お雪ちゃんは驚かされました。手先が器用だけではない、この人は、人の髪を結ってやることが好きなのだと思わずにはおられません。人の髪を結ってやることが好きというよりも、人の髪を結ってやることに於て、自分の芸術心に満足を求めているのだとしか思われないことほど、非常に丹念に絵を描いたり、彫刻したりするような気分を、はっきりと見て取ることができます。
「お嬢様、あなた様は、どうしてまあ、髪上げなんぞにまで、こうもお上手でいらっしゃいます」
と、やっとこれだけの推称をしてみますと、お銀様は、
「長浜へ行ったら、この次にはお雪さんを丸髷《まるまげ》にしてあげます」
「え」
 お銀様の言うこと為《な》すことの意表に出づることは、わかり切っていながら、その度毎に、お雪ちゃんの胆《きも》を奪うことばかりです。

         二十七

「お嬢様、丸髷《まるまげ》なんて、それはあんまり……」
 桃割のきまりの悪いよりも、お雪ちゃんにとって丸髷と言われることは、なお一層、きまりが悪い程度を越して気味が悪い、と言った方がよいでしょう。そうすると、お銀様が、何かしら少々の自己昂奮を覚えたものの如く、
「いいえ――もうお雪さんは、丸髷に結っても似合わないことはありませんよ」
「御冗談《ごじょうだん》を……」
「桃割から島田になり、島田から丸髷にうつる時に、女が女になるのです。ですから、丸髷というものは憎いものです」
 お雪ちゃんは何と挨拶していいかわからない。
「でもお嬢様、丸髷っていいものでございますね、あんな粋《いき》で、人がらな髪はございません」
「お雪さん、あなたも丸髷がお好き?」
「え、わたし、自分はそんな柄ではありませんけれど、好きなという点から言いますと、あんな好きな髪はありません」
「わたしも、丸髷は大好き……」
「お嬢様、あなたこそ、丸髷が全くお似合いになりますよ、すらりとしたお姿に、粋で高尚な丸髷を結んでごらんあそばせ、それこそ、わたしたち女が見て、うっとりするお姿になるでしょうと思います、ほんとに、お嬢様の丸髷姿こそ、どんなにお人柄でございましょう」
「そうか知ら」
「丸髷は江戸風がよろしうございましょうか、京風でございましょうか。長浜にも、きっと上手な髪結さんがいることでしょうから、お嬢様、今度は、あなたこそ、丸髷にお結いあそばして、お見せ下さいまし」
 お雪ちゃんがこう言ったのは、あながち、お銀様の意を迎えるためにばかり言ったのではない、事実、お銀様その人の姿かたちというものを見ているうちに、ことに、そのすらりとした後ろ姿などを見せられる時は、女ながら、うっとりさせられてしまうことは度々なんでした。日頃、心にあることが、うっかり口へ出ただけなのでしたが、その言葉と共に、お銀様の元結《もとゆい》を結ぶ手が、ブルッと異様に顫《ふる》えたのを感づくと、電気に打たれでもしたようにハッとして、
「失策《しま》った」
と、これは口には出さなかったが、自分ながら、鏡にうつる面《かお》の色がさっと変ったのを気づかずにはおられません。
 この女王様に、髪を結って見せろと言ったのは、いかに重大なる禁忌に触れたのではなかったか。姿のいいことばかりを考えていたが、その首から以上の神秘に於ては、お雪ちゃんは今日まで、ついに何物にも触れていないし、許されてもいない。この女王様が、朝から晩まで、屋外にあると、室内にあるとを問わず、秘密を守り通しているこの覆面の中の神秘は、未《いま》だ曾《かつ》てお雪ちゃんの前に開かれていない。お雪ちゃんとしては、女王様の威力に圧倒せられて、仰ぎ見ることができないといった、ある程度の憚《はばか》りもあるが、同時に女性として、包み隠さねばならぬほどの秘密を、かりそめにも発《あば》きうかがうには忍びない、というしおらしい惻隠《そくいん》もある。そこで、お雪ちゃんは、今日まで起居を共にしていても、お銀様の首から上の形態は問題にしていない。その頭脳の精鋭には心服しているが、形態的には首から上の先天的に存在しない人として、この女王と応対するに慣らされている。ところが、たった今、不用意で言ったことは、明らかにこの禁忌に触れていたということを、口を辷《すべ》らしてはじめて気がついたのです。
「わたしは、人の髪を結ってあげることは好きだが、自分の髪を結うのは嫌いです、自分の髪の毛が、どんな色に変っているか、それは見たこともない、見ようとも思わない……見ようとも思わないものを、人に見せるわけにはゆきません」
と、お銀様の言葉は存外平調でしたから、お雪ちゃんもホッとしました。
 髪を結い終ると、お銀様が、
「では、お雪さん、あの衣裳箱をとり出して、あなたの身に似合う着物を見立てて下さい、いいえ、かまいません、上も下もみんな抽斗《ひきだし》を抜いて見て下さい――わたしが手伝って着つけをして上げましょう、長浜は縮緬《ちりめん》の本場で、衣裳のことにはみんな目が肥えているでしょうから、笑われないようにして行って下さい」
 お銀様の結い上げた島田の出来栄えに、お雪ちゃんはのぼせるほど興味を感じているところへ、立てつづけに衣裳の詮議、それもこの場に於てのあらゆる豪華を尽して展開されようというのですから、お雪ちゃんはわくわくとして、別の世界へ連れて行かれる気分にさせられてしまいました。

         二十八

 やがて出来上ったお雪ちゃんの粧《よそお》いは、結綿《ゆいわた》の島田に、紫縮緬の曙染《あけぼのぞめ》の大振袖という、目もさめるばかりの豪華版でありました。この姿で山駕籠《やまかご》に揺られて行くと、山駕籠が宝恵駕籠《ほえかご》に見えます。
 春照《しゅんしょう》から長浜へ行く、なだらかな道筋、その駕籠|側《わき》に小風呂敷を引背負って附添って行くのは、近頃この王国の御飯炊きになった佐造というお爺さん。人里近くなるにつれて、村人村童の注視の的とされずには置きません。
「あれ、綺麗《きれい》な人が通るよ」
「お人形さんみたいのが通るよ」
「お駕籠で、どこぞのおいとはんが通りなさるよ」
「まあ、綺麗」
「立派だな」
「どこのお娘《いと》はんだすやろ」
「あ、ありゃお軽さんだぜ」
「おお、お軽さんだ」
「お軽さんなら山科《やましな》へ行かるるのでおまっしゃろ」
「いいや、お軽さんは祇園《ぎおん》へ売られて行くんだっせ」
「祇園だわ」
「京の祇園へ、おいとはん、売られて行くんだっせ」
「かわいそうに――」
「あの年でなア――」
「お軽はん、かわいそうに」
 彼等は口々に、お雪ちゃんをお軽にしてしまいました。
 山科から祇園へ売られて行くお軽さん。多分、村人村童たちは、村芝居の教育によって、駕籠《かご》に揺られている美しい女を、いちずに、お軽ときめてしまっているらしい。お雪ちゃんはそれを聞いていい気持はしない。いい気持のしないのは、今に始まったのではなく、最初から、こういう極彩色に自分の身をして町に下らしめられることが、本意ではなかったのです。お銀様の意志によって、こういうことにさせられてみると、恥かしいやら、おかしいやら、苦しいような、擽《くすぐ》ったいような気分にさせられてしまいましたが、それでも若い娘のことですから、美しい粧いをさせられたということに、堪え難い嫌悪《けんお》の念は起しませんで、どうかすると、一種の得意の念をさえ催して、年にも似合わず老《ふ》けていた自分というものを、急に青春を取戻したような心持にもなってみたが、村人村童から忠臣蔵のお軽に見立てられて、祇園|一力《いちりき》への身売り道中にさせられてしまったことには、笑っていられないものがありました。
「お軽さんだぜ、ほら、お爺さんが附添っているだろう、あれが与一兵衛《よいちべえ》はんだっせ」
「おお、与一兵衛さん……」
 お雪ちゃんがお軽にさせられた巻添えを食って、気の毒に佐造老爺が、与一兵衛にされてしまう。
 誤解も、誤伝も、慣れてしまえばあまり気にはならない。本来、捌《さば》けた気風《きっぷ》を持っていたお雪ちゃんは、長浜へ近く、ようやく人の眼と口とに慣らされてくると、もう全く度胸が据ってしまいました。何とでもお見立てなさい、また何とでも品さだめをおっしゃい、わたしはこうさせられたこの身上で、行くところまで行きますよ、珍しければ、いくらでもごらんなさい、見られるだけで、穴はあきませんよ、といったような自暴《やけ》に似た度胸にまで変ってきてみると、かえって自分が人から注視の的とされることに、幾分の得意をさえ感じないではありません。
 さて、こんな、見栄《みえ》だか曝《さら》しだかわからない身上で、わたしはいったいどこへ落着くのだろう。お銀様から、落着くべき絵図面は事細かに書いてもらってある。そこへ落着きさえすれば、万事はきまることはわかっているが、落着く先の空気と、相手になるべき人の身の上のことは、一向にわからない。

         二十九

 そのうちに、お雪ちゃんは、ふいと、こんな気持になりました――
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