に会わなければならないでしょう、父は、わたしが胆吹にいると知って来たのに相違ありません、上方見物《かみがたけんぶつ》はかこつけ[#「かこつけ」に傍点]で、実はわたしの行動を見届けに来たのです」
「それは、そうかも知れない」
「してみれば、わたしは結局、会わなければならないことになるでしょう、わたしは、父の宿を大津まで訪ねて行く気にはなれないが、父が胆吹へやってきた以上は、まさか、それを追い返すわけにはゆかないでしょう、会わないというのも卑怯ですからね」
 左様、父の伊太夫が甲州から旅立ちをしてこの近いところ、大津に宿っているということを、先刻侵入のあの小ざかしい、生意気な、色男がかった小盗人《こぬすっと》の、今いうがんりき[#「がんりき」に傍点]の百とやらから、キザなセリフ廻しで聞かされた。現にまぎれもなき、父が愛用の腰の物を証拠に持参したのだから、まんざらの出鱈目《でたらめ》でないのは分り切っている。そこで、次の段取りは、いかにしてこの父に応接すべきかでなければならぬ。お銀様は、当然それを考えていたのが口に出たまでである。これも相手に返答を求めるために言ったのではない。
「そうなると、わたしは一応、胆吹へ帰らなければなりません、その間、あなたはここにじっとしていらっしゃい、動いてはいけません――」
と、今度は、相手に向って宣告を下したのです。なお、その宣告につけ加えて、
「わたしが、またこの宿へ戻って来るまで、この一間でじっとしていらっしゃい、犬を斬りに出てはいけません、もうこの辺には斬って斬栄えのするものは何もいませんから。それに、このだだっ広い加藤清正の屋敷あとなんですもの、隠れているには恰好《かっこう》ですよ、宿へ言いつけてありますから、誰も気兼ねはありません、おとなしく、じっとして待っていらっしゃい」

         二十三

 お銀様は、竜之助に監禁を申し渡して置いて、
「ですけれども、誰かお給仕がなくてはいけませんねえ、誰か、しょっちゅう[#「しょっちゅう」に傍点]ついていてあげる者がなければ生きられない人なんですから」
とつけ加えて、当惑がりました。
「なあに、一人だってかまわないよ」
と竜之助が、ブッ切ったように言う。
「かまわないことがあるものですか、さし当り、誰が朝夕の御膳を運んでくれますか」
「女中がいるだろう」
「女中任せなんぞにできる人なら、心配はありませんよ」
「では、宿のおかみさんか誰か」
「宿のおかみさんというのは、まだ若いのです」
「若くったって、かまわない」
「こちらはかまわなくても、あちらがかわいそうです」
「どうして」
「どうしてたって、あなた、あなたという人は、人の若いおかみさんが好きなんでしょう」
「何を言ってるのだ」
「わかってますよ。それに、この宿のおかみさんは、若くて、愛嬌があって、上方風の美人なんです」
「それがどうしたというのだ」
「そればかりじゃありません、ここは近江の長浜というところですよ」
「長浜はわかっている」
「そうして、この宿は、長浜の浜屋という宿なんです」
「それも、前から聞いて、ようくわかっているよ」
「そればかりじゃないのです、その若いお内儀《かみ》さんの名前が浜っていうんです」
「え」
「驚いたでしょう、そのお内儀さんを、あなたのところへ出せますか」
「うむ――」
「どうです、そう聞いているうちに、そら、もうあなたの血の色が変ってきました、かわいそうに、これでもう、この宿のお内儀さんが見込まれてしまいました。わたしという人も、うっかり言わでものことに口を辷《すべ》らしたために、また一つの殺生をしてしまいました。これではとても、ここへひとり残して置くわけにはゆきません。といって、この人をわたしが連れて、白昼どこへ歩けますか、夜更けにはなおさらあぶないものです」

         二十四

 胆吹の新館のお銀様の居間で、お雪ちゃんが頻《しき》りに桔梗《ききょう》の花を活けている。
 お雪ちゃんとしては、お銀様に出し抜かれて湖水めぐりをされてしまったようなものの、それでも心からお銀様を恨むということも、憎むというほどのこともあろうはずはなく、今では充分の好意をもって、その不在の間にお花を活けて、床の間への心づくしをして置いて上げたいという気持にまでなっているのです。
 思うようには活けられないけれど、せめてお銀様に笑われないように――ああも、こうも、と枝ぶりに精をこめている間に、つい我を忘れる気持にまでさせられてしまいました。芸術的気分とでもいうものでしょう――無心になって花を活けていると、その後ろから、不意に物影が暖かくかぶさりましたのに、無心の境を破られて、はっと見向くと思いがけなく、自分の背後にお銀様が例の覆面のままで、すらりと立って、こちらを見下ろしているではありませんか。
「まあ、これはお嬢様、お帰りあそばしませ」
 お雪ちゃんは少し周章《あわ》てて、いずまいを直して挨拶をしますと、お銀様は、
「たいそうお上手ですね」
「いいえ、お恥かしいんでございますよ」
 お雪ちゃんは恥かしそうに申しわけをすると、
「結構じゃありませんか」
「いいえ、お嬢様のお留守の間に、ほんのお笑い草までにと思いまして」
「どうも有難う」
「ほんとにお恥かしい……」
「全くお見事ですよ、わたしなんぞには、とてもそうは参りません」
「どういたしまして、お嬢様なぞは、お仕込みが違っていらっしゃいますから」
「天性のものですね、わたしなんぞいくら稽古をしても、無器用なものですから」
「いいえ、お嬢様は万事に筋がよくっていらっしゃいますから」
「芸事では、お雪さんにかないません」
「どう致しまして」
「それで結構です、頂戴して飽かずながめることに致しましょう――お手並もよいが、花の選みも悪くございません」
「少しでもお気に召しましたら、わたし本望でございます」
「部屋全体が、これですっかり落着きが出来ました――お雪さん、そこはそのままにして、あとで誰かに片づけさせましょう、早速ですが、一つあなたに頼みがあるのです」
「何でございますか」
「あのね――」
「はい」
「御苦労ですけれども、お雪さん、これから、あなたにひとつ長浜まで行っていただきたいのです」
「長浜まででございますか」
「はい、長浜へ行って、暫くあそこに泊っていていただきたいのです、しばらくといっても、そう長い間ではありません、せいぜい五日か十日」
「承知いたしました、どういう御用か存じませんが、お嬢様のおっしゃるお言葉でしたら……」
「それでは早速お頼みしますが、長浜へ行きますと、浜屋といって、古い大きな構えの宿屋があるのです、そこへ裏木戸から行って、お雪さんに、暫く泊っていていただきたいのです」
「よろしうございますとも、いつでもおともを致します」
 おともと言われて、お銀様の言葉が少しセキ込みました。
「いいえ、わたしは行きません」
「では?」
「お雪さん、あなた一人で行って泊ってもらいたいのです」
「わたしが一人で、その宿へ泊りに行くのでございますか」
「ええ――一人で行って、向うに人がいますから、その人の介抱をしてもらいたいのです」
「まあ――どなたかのお世話をして上げるのでございますか」
「それはね、行って見ればわかります」
「でも……」
と、こんどは、お雪ちゃんの言葉が淀《よど》みました。お雪ちゃんとしては、お銀様のおともをして長浜まで行くものとばっかり思っていたのが、そのお銀様は行かないで、自分一人で行け、行った先に人がいるから、その人を介抱に――しかも、その人は誰か、行って見ればわかると言われるほど、お雪ちゃんの気分が、わからないものになります。

         二十五

「ねえ、お雪さん、あなたは、わたしのたった一人の妹でしょう、たしかにそのはずです」
「勿体《もったい》ないことです、わたしは、お嬢様にそうおっしゃっていただきましても、あなた様の御家来のつもりでおります、御姉妹なんぞ及びもつきません」
「では、もし仮りに家来として置きますと、なおさらわたしの言いつけを反《そむ》きはしないでしょう」
「反きませんとも、お嬢様のおっしゃることならば、火水《ひみず》の中でも……」
「では、黙って、長浜へ行って下さい、そうして浜屋の裏の木戸口へ行きますと、刎橋《はねばし》があります、そこから入って、しるしがしてありますから、誰にことわる必要もありません、廊下伝いに行きますと、秋草の間というのがありますから、そこへ入って行くと用向がすっかりわかるようにしてあります」
「承知いたしました」
 お嬢様のためならば火水の中までも、と言った手前、お雪ちゃんは無条件でその言うことを聞き従わなければなりません。
「そうして、つまり、病人がいるのです、その看病を、心ゆくばかりあなたに頼みたいのです」
「御病人の看病でございますか、承知いたしました、わたしでできますことならば、できます限り――」
「できますとも、あなたでなければならないのです」
「いいえ、わたしは御病人の看病なんぞ、あんまり慣れませんから」
と、お雪ちゃんが謙遜し、服従しながらも、心の中では合点し難いものが多いのです。病人の看護は頼まれればできない限りはないが、わたしでなければならない病人の看護というものがあるべきはずもないでしょうのに、お銀様の言い廻しが、どうも少し変だと思われないではないが、やはり、絶対服従を誓っている以上は、反問は許されないことで、お雪ちゃんとして、このお嬢様の特異性を心得ているばかりか、このごろでは、心から崇拝する信仰的にさえなりつつあるのですから、否やはあろうはずはありません。お雪ちゃんを退引《のっぴき》させないようにして置いてから、お銀様はなおも畳みかけて言いました、
「その病人は、病人のくせに、退屈がって出歩きをしたがっていけないのです、ことに夜分は気をつけなければいけませんから、お雪さん、あなた、目を離さずついていて、一寸も外へは出さないようにして下さい。尤《もっと》もあなたがついていれば、お出なさいと言っても、出ないかも知れません」
「そんなはずはございません」
 お銀様の言いぶりが、いよいよ消化しきれないものがあるので、その申しわけも、お雪ちゃんとしていよいよ要領を得ないものになる。それをもお銀様は押しかぶせて、
「でも、そうしているうちに、わたしも行くでしょう、そうしたら、その人たちと一緒に、竹生島へでも参りましょう、湖水めぐりもやりましょう」
「それは嬉しうございます」
 お雪ちゃんがお礼を言う。お銀様は冷然として、
「では、これから直ぐお頼みします、行きだけは誰かに連れて行ってもらいましょう。ああ、誰かというより、友さんがいいでしょう、米友さんに頼んで送って行ってもらいましょう」
「あ、お嬢様、その米友さんでございますが……」
 ここで、お雪ちゃんの気色も、言葉も、ガラリと変ってしまいました。
「友さんが、どうかしましたか」
「あの、お嬢様、米友さんの行方が知れなくなったのでございます」
「どうして」
「なんでも、お嬢様がお出かけになって間もなく、やっぱり長浜の方へお出かけになったまま、音沙汰《おとさた》がないのだそうでございます」
「あの人のことだから……」
 お雪ちゃんがあわただしいわりあいに、お銀様は冷淡な挨拶です。それというのは、行方不明といったところで、あの男のことだから、やがてひょっこり帰って来るだろう。或いはもう立帰って、料理場の隅に好きな栗でも茹《ゆ》でているのではないか、といった程度のものです。ところが、お雪ちゃんの不安な色は容易に去らないで、
「いいえ、それが只事ではないらしうございます、役人に捕まって、晒《さら》しとやらにかけられているというような、不破の関守さんのお言葉でしたが、くわしいことをわたくしに知らせて下さらないのが、いっそう心配なんでございます」

         二十六

 米友の行方については、お銀様も、お雪ちゃんも、関心の限りでないことはないが、さり
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