ためなのだ。そうして、家康はそれに成功したのだ。天下の平和のために、百姓を犠牲にしたのだ。百姓をいじめたいから、自分が栄華を極めたいから、そこで百姓を虐待したわけではないのだ――現に、百姓共が、安穏に百姓をしておられるのも、この徳川の武力があればこそではないか。強い武力がなければ、国は取られ、田は荒され、百姓は稼《かせ》ぐところを失うどころか、稼ぐべき田地をさえ持つことはできない。
だから、百姓は百姓として、分を知って服従していさえすればいいのに、ややもすれば反抗したがる。表面服従して、少し目をはなせば一揆を起したがるのが百姓だ――ことに近来は、一揆の無頼漢の音頭を取るものを称して「義民」だのなんのと祭り上げる輩《やから》が多いから、百姓がいよいよ増長する――云々《うんぬん》。
二十
「どこの国の百姓も、百姓としては皆うだつの上らないのは同じだが、ことにこの近江の国の百姓はみじめ[#「みじめ」に傍点]なものです」
と、青嵐居士が不破の関守氏に向って言うと、
「どうしてですか」
「それは、京都をつい背後に控えているだけに、戦争というと、この国が唯一の要路となるのです。東国の兵がこの国を通過せずして京都に入ることはできません、西国の兵もここを通過せずして東征はできません、そこで、乱世に於ては国土が絶えず兵馬に蹂躙《じゅうりん》せられ、人民が残暴を蒙《こうむ》りますから、土地に安堵《あんど》して生活を営むということができません、いつ剽掠《ひょうりゃく》を蒙るか、掠奪せられるかわからないのみならず、人力も絶えず徴発せられて争闘の犠牲とならなければならない、生民その堵《と》に安んぜずというのが、この近江の国の住民の運命でした」
「なるほど」
「しかし、人間というものは運命に妨げられると共に、運命に逆らって新境地を打開する力を与えられているようでありまして、かく不幸なる境地に置かれて、堵に安んぜざる変通力が、一転して商業の方へ注がれたというわけです。故にこの国の勤勉にして機を見るに敏なる土民共は、農業を捨てて商業の方に着目し、転向することになりましたのです」
「なるほど」
「土着の土地を相手にしないで、他領他国を目的とする、自分の生れた土地で生産して、それから恵まれることを断念して、他国へ進出して富を吸収して来るという新方向を案出したのも、自然の径路とはいえ、この国の住民が馬鹿でない証拠です」
「なるほど」
「そこで、近江商人の名が天下に聞えるに至りました。勤勉実直にして、知らぬ他国から金を儲《もう》けて産を成し、その産を蓄積することに於て、また非凡なる忍耐と進取との才能を持っておりました。他国に向っての積極的進出と、自ら守ることの堅実な消極的忍耐と、両方をこの国の人間が持つことができたという次第で――そこで、自分の国の乱れるということが、商人として成功する逆縁となりました。今日、大阪に於ける、江戸に於ける、近江商人というものの財力の、いかに根強くして盛んなるかを思い合わせてごらんなさるとよくわかります」
「なるほど、そうおっしゃられると、それがいわゆる近江商人の勢力の一大原因であるかのように感ぜられます。国土が争乱の巷《ちまた》となるが故に、住民が他国へ進出する機縁となる、逆縁がかえって利縁となったという次第ですな」
「そうです。しかし、そんならば、すべて自分の国が乱れているところの人民は、外に向って大いに発展をするかと申すと、それは一概には言われません、全く疲弊しきって、奴隷以下に没落してしまう国民もあるのですから、要するに気質の問題ですな」
「なるほど」
「江州人は、素質的に、逆境を打開する勤勉の気風を備えていると見なければならない理由もあるのです。たとえばです、これから越前の方へ向けて出る途中に、難渋な峠が三ツもある、たいていの人だと、それを聞いてうんざりし、せめて三ツの峠が二つにでもなればいいと、こういって歎息するところを、江州人は、峠が更に二つばかり余分にあればよい、そうすれば、人がいよいよ難渋がって出かけない、そこを自分は出かけて行って、商売をひとり占めにしてしまう――大体こういった気風なのですから、そこに近江商人の勝利があろうというものです」
「なるほど――おおよその人は地の利を恃《たの》むのだが、江州人は地の不利に恵まれるというわけですな。もとより、それは素質とも相関係しましょう」
「もちろん、天の時、地の利と言いますが、江州人には、天の不祥時と地の不利益の場合に、恵まれるのです。彼等は己《おの》れの国土を対象としないで、他国進出を目標としています、そこに彼等の発展があります。しかし、こういう、恵まれずして恵まれたる土地の半面には、恵まれたようで実は恵まれない不幸の民が多いことを思わなければなりません。近江商人が最も恵まれた成功者だとすれば、近江農民は最も恵まれざる落伍者だということもできます――」
「なるほど」
「江州人だとて、皆が皆、そう他国へ進出して成功する者ばかりではありません、この国に残って兵馬の奴隷となり、或いは痩畑《やせばたけ》の番人とならなければならぬ運命に置かれた農民こそ、最も恵まれざる者と言うべきでしょう」
二十一
「かく、一方には他領他国へ進出して富を成す成功者があると共に、一方にはちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]することさえ許されざる農民が存することは、おたがいよく考えてみなければならないことです」
「なるほど」
「外へ発展するの機運に恵まれず、内にとどまっていては、搾《しぼ》られて骨も身も食われてしまう、そこで、やむを得ず他領へ出奔せんとすれば、ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]律があって、厳として身動きが許されない、下手な講釈師のやる荒柳美談ではないが、彳《たたず》むな、立つな、歩むな、居坐るな、というところが即ち農民の立場なのです」
「なるほど、そうなりますと、いよいよ古《いにし》えの諺《ことわざ》にあるが如く、民に倒懸の苦ありということになりますな、農民は倒《さかさ》にブラ下がっているより仕方がないというわけですな」
「なんにしても、ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]律はよくありませんな、行動の自由、移住の自由を奪うということはよくありませんな。民に移住されると、領土を耕す人がなくなる、自然、領主がやりきれなくなる、という結果が怖い、移住されることがそれほど苦しければ、民を優遇するに越したことはないではないか、優遇というのが為し難ければ、人間が住めるだけのようにしてやる責任が領主にはあるでしょう、罪人ならざるものを、一定の土地に監禁して、動く勿《なか》れと命ずるのは悲惨ですね」
「あらゆる農民いじめのうちに、このちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]律が最も不合理だと思います。最近です、湖岸の町々村々にも、このちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]律の制札が出ましたのをごらんになりましたか」
「私も、ちょっと見かけました」
「あの文言をお読みになりましたか」
「一読いたしました」
ここで、二人の問答にかかって、見たか、読んだかの問題に上っているちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]律の制札なるものは、多分、先日の日、長浜の町の会所の附近に於て、宇治山田の米友の目に触れたあれであります。
それならば、「胆吹の巻」の十八回のところにある――
長浜の会所へ、両替の使に用心棒としてついて来た宇治山田の米友は、会所の前に暫《しばら》く待っていたが――そこに高札場があって、いくつもの札のかけてあるのを見つけました。その高札を片っ端から読んでみますと、その真中のいちばん大きいのに、次の如く書いてありました。
[#ここから1字下げ]
「定
何事によらず、よろしからざることに、百姓大勢申合せ候を、とたう[#「とたう」に傍点]ととなへ、とたうして、しひて願事企てるをがうそ[#「がうそ」に傍点]と言ひ、あるひは申合せ村方立退候をてうさん[#「てうさん」に傍点]と申し、他村にかぎらず、早々其筋の役所に申出づべし、御褒美として、
とたうの訴人 銀百枚
がうその訴人 同断
てうさんの訴人 同断
右之通下され、その品により帯刀苗字も御免あるべき間、たとひ一旦同類になるとも発言いたし候ものの名前申出づるにおいては、その科《とが》をゆるされ、御褒美下さるべし。
一、右類訴いたすものなく、村々騒立ち候節、村内のものを差押へ、とたうにくははらせず一人もさしいださざる村方これあらば、村役人にても、百姓にても、重にとりしづめ候ものは、御はうび下され、帯刀苗字御免、さしつづきしづめ候ものどもこれあらば、それぞれ御褒美下しおかるべきもの也。
年 月 日[#地から2字上げ]奉行」
[#ここで字下げ終わり]
それを読んでしまった米友が、高札の表を横目に睨《にら》んで、
「ははあ、一味ととうしちゃいけねえってえんだな、申合せをして村方を立退くのもよくねえてえんだな、それを訴人しろてえんだなあ、訴人した奴には銀百枚を御褒美として下しおかれようてえんだな、なおその上に、次第によっちゃ苗字帯刀も御免あろうてえんだな……一味ととうして乱暴を働くのが悪いのはわかり切ってるが――苦しくって堪らねえから、村をちょうさんして、どこぞへ落ちのびて行くのも罪になるんだ、いてもわるし、動いても悪し、立って退けばまた悪い、百姓というものは浮む瀬がねえ」
と言って彼は浩歎したのであったが、思いきや、そこで、その悪逆なる罪名を自分が蒙《こうむ》って、ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]の罪を着せられて、「晒《さら》し」にかかる運命に落されていようとは。
二十二
長浜の浜屋の別館に割拠しているお銀様と竜之助とが、襖越しに深夜の会話。お銀様がまず言う、
「だが、おかしいほど芝居気たっぷりの男でしたわね」
「ふーむ」
「いやに気取って、セリフ廻しからしぐさまで、すっかり芝居になっていましたよ、キザもあそこまで行くと、ちょっと笑えない」
「ああいう奴なのだ」
「あなた、以前から御存じなんですか」
「ちっとばかり知ってるよ」
「そうすると、あなたのことも、わたしのことも、知り抜いていての悪戯《いたずら》なんでしょうか、それにしては仕上げが拙《まず》うござんしたわ」
「は、は、何に限らず、あれはちょっかい[#「ちょっかい」に傍点]を出してみたがるように出来てる男なんだ」
「その、ちょっかい[#「ちょっかい」に傍点]が怪我のもとでしたねえ、殺生《せっしょう》なことでした」
「うむ」
「殺生は殺生ですけれども、あなたとしては、あんまり、しみったれな殺生でしたね、どうして二つに斬っておしまいなさらなかったのですか」
「ふーん、そりゃ、座敷を汚してもいけないからな、少し考えたよ」
「かまいませんよ、畳なんぞは、いくらでも新しくなりますから。ですけれど、指一本というところが、かえって細工が細かくて面白いのかも知れません。それにあいつは気のせいか、右の腕がないようでしたね、ああ、わかりました、わかりました、あいつの片腕を打落したのが即ち、あなたなんでしょう――女のことで」
と、お銀様がここでひとり合点をすると、四方の空気がいとど収斂性《しゅうれんせい》を加えてきて、夜更けに近いのか、夜明けが迫っているのか、ちょっとわからない気分が漂いました。
「がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵という奴があれなんでしょう」
と、ややあってお銀様が、机の上に片肱《かたひじ》を置いて言いましたが、竜之助の方では、とんと返事がない。お銀様は別段それを追究するでもなく、
「それはそうと、あいつの今の言葉で、わたしの父親が、この近いところに来ているということをお聞きになりましたか」
「聞いた」
「そうして、わたしの父親から、その脇差をもらって来たとか言って、それを仔細らしく、わたしのところへ押売りに来たと言っておりましたねえ」
「その通り――」
「さあ、それが本当だとすると、わたしはどのみち父
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