ての村に於て、この際、如何《いか》ようなお願いの筋があろうとも聞き届けることは罷《まか》り成らぬ――村々からあらかじめ、そのお請書を出させて置いての勘定役御出張なのです。そこで老中派遣の勘定役が、両代官を従えて出張して参りましてな、郡村に亘《わた》って、検地丈量の尺を入れたのでござるが、もとよりお上のなさることだから、人民共に於てかれこれのあろうはずはないのでござるが、そのお上のなさるというのが、必ずしも一から十まで公平無私とのみは申されませんでな。
 つまるところわいろ[#「わいろ」に傍点]なんですね。当節は到るところ、それなんだからいけませんなあ、わいろ[#「わいろ」に傍点]でもって、すっかり手心が変るんですからいけません。いったい、役人がわいろ[#「わいろ」に傍点]を取って、公平を失するということほど政治上いけないことはありませんね……今度の騒ぎも、そもそもそのお江戸の御老中派遣の勘定方が、わいろ[#「わいろ」に傍点]によって検地に甚《はなはだ》しい手心を試みたそれが勃発のもとなんで……」
 江戸老中派遣の、わいろ[#「わいろ」に傍点]を取る役人が出張して、思う存分に竿を入れる。そのくらいだから寛厳の手心が甚しく、彦根、尾張、仙台等の雄藩の領地は避けて竿を入れず、小藩の領地になるというと、見くびって烈しい竿入れをしたものだから、領民が恨むこと、恨むこと。そこで、これはたまらぬと、庄屋たちが寄り集まって、竿入れ中止の運動を試みようとしたが、そこはわいろ[#「わいろ」に傍点]役人に抜け目がなく、あらかじめ一切の訴願|罷《まか》りならぬという覚書を取ってある。しかし、領民たちになってみると、死活の瀬戸際だから黙っていられない、その鬱憤が積りつもって、大雨で水嵩《みずかさ》が増して行くように緩慢に似て漸く強大である。どこの村から、どう起ったかということは今わからないけれども、近江の四周《まわり》の山水が湖水へ向って集まるように、湖岸一帯の人民の不平が、ある地点へ向って流れ落ちて溢《あふ》れて来る。
 たとえば野洲郡《やすごおり》と甲賀郡の歎願組が合流して水口へ廻ろうとすると、栗田郡の庄屋が戸田村へ出揃って来る。勘定役人が甲の川沿いから乙の川沿いに行こうとすると、両の郡の農民が結束して集まるもの数千人、ことに甲賀郡西部方面から押し出した農民は、水口藩警固の間をそれて権田河原《ごんだがわら》に屯《たむろ》し、同勢みるみる加わって一万以上に達し、破竹の勢いで東海道を西上し、石部《いしべ》の駅に達したが、膳所藩《ぜぜはん》の警固隊を突破し、三上郡に殺到、そこで他の諸郡の勢と合し、無慮二万人に及んで、三上藩に押寄せるという勢力になった。
 幕府の勘定方の役人は、その時、三上藩にいたが、藩の役人が怖れて急ぎ避難をなさるようにと勧めたが、剛情我慢な幕府勘定役人はそれを聞き入れない。ついに群集は陣屋へ殺到して、勘定方役向を取囲んで口々に歎願を叫んでいる。幕府勘定方役人の生命も刻々危急に瀕《ひん》している――

         十八

 なお、そのことのあった前後、青嵐居士《せいらんこじ》がまたしても、胆吹の山荘に不破の関守氏を訪れての会話が漸く興に乗ると、次のようなことを滔々《とうとう》と論じ立てました、
「そもそも徳川氏ばかりが、農民の敵だと言いふらすやからは、二を知って一を知らないものですよ――例の豊臣氏なんぞが、むしろ農民を搾《しぼ》る方の本家と言ってしかるべきでしょう。たとえばです……
 日本に於て、農民が最も幸福であった時代は鎌倉時代、とりわけ北条時代であったのですが……さて、応仁の乱以後、天下を平定した豊臣秀吉というものが、御承知の通り、彼は全く名もなき農民の出でありましてな、そんなら、その純粋の農民の出であるところの豊臣太閤というものが、どういう扱いをその親元の農民に向って試みたかと申しますと、まずあの時のあの人が行った『検地』というものでよくわかりますな。秀吉の時までは一段歩は三百六十坪であり、一坪は六尺五寸平方であったのですが、それから一段三百坪に改め、一坪を六尺三寸平方とし、これによって約二割以上の増収を農民の上に加えたのであります……
 秀吉も、その武力統一を完全にすると共に、大陸政策を実行する上に、どうしても農民を搾《しぼ》らなければならなかったのですな。農民を搾るためには、農民を無力にして置かなければならなかったのですな。そこで『検地』の一方には『刀狩り』というようなことも行われましたのです。農民から一切の武器を取り上げて、苟《いやしく》も反抗のできぬように丸腰にしてしまったのが秀吉です……
 それを徳川氏に至って、更に徹底的に強行政策を用いて圧迫しきったというのですな。だから、徳川氏の政策は農民を人間扱いにはしておりません、濡手拭と百姓は、絞れば絞るほど水が出る――最後の一滴まで絞るように慣らしてしまったのですな。徳川氏の対農民政策はその通りですが、その俑《よう》を作って与えたものは豊臣秀吉なのです。ことに徳川氏は少なくとも城主大名の家に生れたのですが、豊臣に至っては、尾張の中村の純粋なる農民の出であるにかかわらず、農民の地位を向上せしめず、これを奴隷以下に置くことの俑を作りました。もし、農民が目下の検地の残忍刻薄を恨むならば、当然、遡《さかのぼ》って徳川家康を恨まなければならない、家康を恨む以上は、秀吉もまた同罪のみかは、同罪以上の元凶であることを恨まなければならない理窟になるのです」
 青嵐居士は、自分がこういう意見の所有者ではない、広く歴史を読んでいる間に、こういう史上の事実を掴《つか》み出でて語るものらしい。すると不破の関守氏も、その説には相当共鳴するところあるものの如く、
「秀吉は農奴から起って関白に至ったということは、争うべからざる素姓《すじょう》と考えますが、家康とても必ずしも、生え抜きの城主大名とはいわれますまい。近頃、ひそかに研究した人の説によると、彼は農民よりもなお賤《いや》しい、乞食の徒、願人坊主《がんにんぼうず》、ささら売りの成上りだということであります」
「ははあ、それは新説です、徳川家康の幼名竹千代、岡崎の城主松平広忠の公達《きんだち》というのでなく、願人坊主、ささら売りの成上り……それは果して根拠のある説ですか」
「当人の研究によると、なかなか根拠があります、つまり、その説は……」

         十九

 不破の関守氏は、村岡融軒著「史疑」と称する一書を取って、青嵐居士の前に置いて言いつづけました、
「この書物は、相当丹念に研究して成ったもので、面白い説ですから、拙者は要領をうつし留めて置きました、お暇の時に御一覧下さい。而《しか》して要するに、徳川家康の真実の素姓を突留めんとした書物でありまして、結局この著者の研究の結果は、家康は簓者《ささらもの》の子であって、松平氏の若君でもなんでもない、十九歳までは乞食同様の願人坊主であった、それが、正銘の松平の曹司竹千代が駿府《すんぷ》に人質となっているのを盗み出し、それを信長に売り込んで、出世の緒《いとぐち》を開いたのだという説です……」
「ははあ、そういう新説は今まで聞きませんでした、それだけの説を立てるからには、必ずしも拠《よ》るところがないわけでもありますまい、荒唐無稽の小説ならばとにかく、新研究とあるならば、一応読んで置く必要があると思います、拝借いたしましょう」
「どうぞ、ごゆっくりごらん下さい――ところで、秀吉も、家康も、右の通り、その出生が農奴であり、非人同然であるに拘らず、成功した暁には、その発祥民族を酷使虐待する、なるほど、その俑《よう》を作ったのは秀吉でありましょう、それに輪をかけ、箍《たが》をはめたのは徳川氏です」
「左様、徳川氏の農民政策に就いては、拙者も心がけて少々研究を試みていないでもありませんが……」
と言って、そこで、今度は、またも徳川氏の農民政策問題に復帰して、おのおのその懐抱を傾けて語り合いましたが、落つるところは、神尾主膳が百姓を憎むところの根拠の裏を行っているようなもので、徳川家直参の旗本であることを誇りとする神尾主膳が、極力農民を侮辱している。それは、やはりこの大菩薩峠の「恐山の巻」の百四回のところから見るとよくわかる。

 神尾は生れながら、百姓というものは人間ではない――ものの如く感じている。
 それは当然、階級制度の教えるところの優越性も原因であることには相違ないが、それほど神尾というものが百姓を、忌《い》み、嫌い、悪《にく》み、呪《のろ》うというのは、別にまた一つの歴史もあるのです。
 それは、神尾の先祖が、百姓を搾《しぼ》ろうとして、かえって百姓からウンと苦しめられ、いじめられている。神尾の祖先のうちの一人が、自分の放蕩濫費の尻を、知行所の百姓にすっかり拭わせようとしたために、百姓一揆《ひゃくしょういっき》を起されて家を危うくしたことがある。
 体面の上からは勝ったが、事実に於ては負けた。領主としての面目はかろうじて立ったが、内実は百姓の言い分が通ってしまったのだ。
 だから、心ある人は、それから神尾の家風を卑しむようになっている。
 その歴史が、今も神尾を憤らせている。百姓というやつは厳しくすれば反抗する、甘くすればつけ上る――表面は土下座しながら、内心ではこっちを侮っている。最も卑しむべき動物は百姓だ――これには強圧を加えるよりほかに道はないと、それ以来の神尾家は、代々そう心得て百姓を抑《おさ》えて来ていた。今の神尾主膳も、百姓を見ると胸を悪くすること、この歴史から来ている。
 この点に於て、神尾主膳は徳川家康の農民政策を支持している。
「権現様の収納の致し様」といって、百姓は、生かしもせず、殺しもせざるようにして搾れ――ということが、すなわち徳川家康の農民政策であったと今日まで伝えられているのだ。
 毎年の秋、幕府直轄の「天領」を支配する代官が、その任地に帰ろうとする時、家康はこれらを面前へ呼びつけて、郷村の百姓共をば、「死なぬように、生きぬようにと合点《がてん》いたし、収納申し付くべし」と申しつけたということである。
 その伝統を承って、これは家康の落胤《らくいん》だと言われた土井大炊頭《どいおおいのかみ》の如きは、ある年、その居城、下総の古河《こが》へ帰った時、前年までは見る影もなかった農民の家が、今は目に立つようになって来たとあって、「百姓、生き過ぎはしないか」と部下の役人へ詰問的の問いをかけたということになっている。
 その当時の一村の名主の家には、必ず水牢、木馬の類が備えてあったのだ。百姓共が年貢を滞納する時は、水牢へ入れ、木馬に乗せてこれを苦しめたものだ。
 それだけを聞いていると、いかにも農民に対して血も涙もないやり方のように聞える。徳川家は農民を見ること牛馬以下であって、農民にとって、徳川家は仇敵《きゅうてき》ででもあるかのように聞えるが――事実、天下の政治をするものに、好んで農民を苦しめたがる奴があるものか、苦しめるには苦しめるだけの理由があるからだ、苦しめられる方は、苦しめられるだけの因縁《いんねん》があるからなのだ。
 いったい、発祥時代の徳川家の地位を考えてみるがいい。天下は麻の如く乱れて、四隣みな強敵だ。その間から千辛万苦して天下を平らかにする――勢い兵馬を強からしめねばならない。兵馬を強からしめるには、後顧の憂いを断たなければならない。兵馬を強からしめるには、兵馬を練ればよろしいが、後顧の憂いなからしむるためには、百姓を柔順にして置かなければならぬ。百姓は、矢玉の間に命がけで立働くには及ばない代り、柔順に物を生産して、軍隊の兵站《へいたん》を補充しなければならない。万一、百姓を強くしてこれに反抗の気を蓄《たくわ》えしめた暁には、強い戦争ができるはずはない。そこで百姓を骨抜きにして置かなければ、軍隊を強くして、天下を平定することはできないのだ。
 だによって、家康が百姓を抑えたのは、武力を伸ばさんため。武力を伸ばすのは、天下を平定せんが
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