「返答ができないのか」
「どうか、御免を蒙ります、もっとやさしい、鐚は鐚相当のところで、一年生でひとつ試験問題の御下問が願えてえもんで……」
「試験ではない、実際問題なんだ、自分の目の前に即刻現われた問題として返事をしてみろということなんだ、むずかしくとる必要はない、たとえば、安政の大地震の時のようにだ、今度は地震ではなく、外敵が不意に押しかけて来たとしたら、貴様は、どう身の振り方をつけるか、それを端的に返事をしてみろというだけのものだ」
「地震でげすか、地震ときちゃあ、鐚は最も虫が好かねえんでげすが、さりとて、それござんなれと、鎧兜で鯰退治《なまずたいじ》に出動という勇気はござんせん、まず、何を置いても、三十六計逃げるに越したことはございません、逃げるには、竹藪《たけやぶ》の方へ逃げた方がよろしいと教えられておりますんでございますが……」
「そうか、地震なら逃げ出す、そうして、もしそれが敵だったらどうだ、この江戸を仇となすやつが他国から押寄せて来た日には……いやいや、やっぱり逆戻りだ、考えてみると鐚、貴様には荷が勝ち過ぎた試験だ」

         八十九

「落第でげすか」
「落第というものは、ともかく試験をうけて上のことだが、貴様のは落第にも至らない……まず低能だ」
「ナ、ナンとおっしゃりました」
「低能だよ」
「低能――低能と申しますと、まず一人前に通用しない、馬鹿といった異名でございますね、そうおっしゃられちゃあ、鐚《びた》もあとへ引けません」
「怒ったな」
「怒りました、人間、低能呼ばわりをされて、怒らない馬鹿はありません、怒りました、真に怒りました」
「そうだ、低能と言われて憤りを発した貴様は、まだ脈がある」
「脈どころじゃございません、この通り、癇癪玉《かんしゃくだま》が破裂いたしました、さあ、こうなった以上は、矢でも鉄砲でも持っていらっしゃい、殿様のお出しなさる試験を立派に受けてごらんに入れます、試験地獄の突破」
「頼もしい、その意気、さて、貴様もいよいよ江戸が灰になるという時分に、その意気と、憤りを発して、節を屈せずという勇気があればめでたいもんだが、いざとなるとそうは参るまい、麻雀《マージャン》がはやれば麻雀、競馬がはやれば競馬、貧窮組が盛んな時は貧窮組に走り、公武合体という時節には公武合体へおべっか――貴様なんぞは、それで生きて行けばいいんだ、だが三百年来の徳川の旗本となってみると、痩《や》せても枯れてもそうはいかないからな……」
「上げたり下げたりもいいかげんになさい、いかに鐚の面がいびつになりたてにしてからが、それじゃあんまりお言葉が過ぎます、そこまでお見限りでは、鐚は泣きます、口惜《くや》しい」
「いいよ、いいよ、そう昂奮すると創《きず》にさわる、退屈まぎれに貴様に試験をかけたまでだ、試験問題一切、水に流すから心配するな、そうして、もうそんな七むずかしい問答はやめて、もっと面白い、貴様のおはこの陽気なやつを喋《しゃべ》れ……今度はおれが聞き役になってやる」
 かくなだめられて、本来おっちょこちょいの鐚はたちまちケロリとして、
「ではひとつ、洋妾《ラシャメン》立国論以来の、鐚独創の名趣向をお聞きに入れますかな」
「聞かしてくれ」
「ではひとつ、その洋妾立国論以来の……」
「洋妾立国論は、貴様の身上としては、なかなか聞ける説だよ」
「共鳴にあずかって恐悦……すべて議論というやつは、知己を待ってはじめて言うべきでげして」
「洋妾立国論には相当に信者が出来たか」
「出来た段じゃございません、今や信仰の域を過ぎて、実行の境にまで漕ぎつけているんでございまして……」
 鐚は、己《おの》れの日頃の持論である「洋妾立国論」を神尾から揶揄《やゆ》されて、かえって得意満々の色を見せました。彼の珍論「洋妾立国論」なるものは、本小説「恐山の巻」の百二回から百三回までのところを見るとよくわかるが、その要領は次の如きものです。
[#ここから1字下げ]
「現に相州の生麦村に於て、薩摩っぽうが、無礼者! てんで、毛唐を二人か二人半斬ったはよろしいが、その代りに、みすみす四十四万両てえ血の出るような大金を、異国へ罰金として納め込まにゃなりやせん、長州の菜っぱ隊が、下関で毛唐の船とうち合いをして、日本の胆ッ玉を見せたなんぞとおっしゃりますが、その尻はどこへ廻って来《きた》りましょう、みんな、徳川の政府が、このせち辛い政治向のお台所から、血の出るような罰金として、毛唐めに納めなきゃあならない次第でげす――そこへ行きますてえと、何といってもエライのは日本の絹と、ラシャメンでげすよ、日本の絹糸は、どしどし毛唐に売りつけて、こっちへ逆にお金を吸い取って来る、それからラシャメンでげす、ラシャメンというと品が下って汚いような名でげすが、名を捨てて実を取る、というのがあの軍法でげしてな」
[#ここで字下げ終わり]
 而《しか》して、鐚のいわゆる「ラシャメン立国論」なるものは、つまり次のような論法になるのである。
 露をだに厭《いと》ふ大和の女郎花《おみなへし》降るあめりかに袖は濡らさじ――なんてのは、ありゃ、のぼせ者が作った小説でげす。
 拙が神奈川の神風楼について、実地に調べてみたところによると、その跡かたは空《くう》をつかむ如し、あれは何かためにするところのある奴が、こしらえた小説でげす。
 事実は大和の女郎花の中にも、袖を濡らしたがっている奴がうんとある。毛唐の奴めも、女にかけては全く甘いもんで、たった一晩にしてからが、洋銀三枚がとこは出す。月ぎめということになるてえと、十両は安いところ、玉によっては二十両ぐらいはサラサラと出す。そこで、仮りに日本の娘が一万人だけラシャメンになったと積ってごろうじろ、月二十両ずつ稼《かせ》いで一年二百四十両の一万人として、年分二百四十万両というものが日本の国へ転がりこむ。これがお前さん、資本《もとで》要らずでげすから大したもんでげさあ。

 得意満面で、この種の持論を唱えている鐚公は、さて改めて、何の独創的珍趣向を持ち出すか。

         九十

 この鐚というおっちょこちょいは、実の名は金助であるが、貴様のような奴に金《きん》は過ぎる、鐚で結構と言われて、その名に納まっている人間である。
 鐚は今「ラシャメン立国論」の持論が、かねて心ある人を傾聴(?)させていることを得意としていたが、今日は改めて、それにまさる一大創案を案出したかの如く、勿体をつけて、そうしてまず神尾の前に次の如く披露しました。
「拙の案ずるには、近い将来に於て『帝国芸娼院』てえのを一つでっち上げて、世間をあっと言わせてみてえんでございます」
「ナニ、帝国――何だって?」
「帝国芸娼院てえんでげす」
「帝国はわかっているが、ゲイショウインてのは何だ」
「芸者の芸という字に、娼妓の娼という字を書きますんでげす」
「そりゃ、いったい何だ」
「そもそも、設立の趣旨てやつを申し上げてみまするてえと、本来が、毛唐というやつがまだ本当の日本を認識していねえんでげす」
「ふーん」
「日本人、ナカナカ、キツイあります、刀を使う上手アリマス、人を斬る達者アリマス、勇武の国アリマス、ただ、芸事できない、芸事できない国野蛮アリマス――こうぬかしやがるのが癪《しゃく》なんでげして」
「ふーん」
「異人館なんぞへまいりますと、テーブルの上で毛唐の奴がよくこんな噂《うわさ》をぬかしやがるんでげす、そのたびに拙ははっぷんをいたしましてね」
「ふーん」
「ばかにしなさんな、日本にも、このくらいの芸事がある――てえところを一つ、見せてやりてえんでげして」
「ふーん」
「さすがに、鐚の眼のつけどころはエライ――とおっしゃっていただきてえんでげす」
「ふーん」
「そこで、その帝国芸娼院てやつを大々的にもくろみの……日本には芸妓でさえ、これこれの芸術がある、遊女でさえも高尾、薄雲なんてところになると、これこれの文学があるというところを、毛唐に見せてやりてえんでげすが、いかがなもので」
「そうすると、つまり、日本中の芸者と女郎を集めて、毛唐に見せてやりてえと、こういう目論見《もくろみ》か」
「いいえ、どうして、そんな単純な、浅はかなんじゃござんせん、日本のあらゆる芸事という芸事の粋を集めて、これこの通りといって、毛唐に見せてやりてえんで、芸娼院という名は仮りに鐚がつけてみただけのものなんで、もっとしかるべき名前がありさえ致せば、御変更のこと苦しくがあせん」
「日本のあらゆる芸事という芸事の粋を集めるんだって、ふーん、なかなか仕掛が大きいんだな」
「仕掛が大きいだけに、人選てやつがなかなか難儀でげして、まずあらゆる芸人という芸人の、粋の粋たるもの百人を限って選り抜きます」
「ふーん」
「なにも、芸娼院と申したところが、芸妓と娼妓ばっかりを集めるという趣意ではがあせん、とりあえず美術でげす、日本は古来、美を尚《たっと》ぶ国柄でげして、絵の方になかなか名人が出ました……」
「ふーん」
「ところで、とりあえず狩野家の各派の家元を残らずメンバーに差加えます、それから、四条、丸山、南画、北画、浮世絵、町絵師の方の、めぼしいところを引っこぬいてこれに加えます、拙が見たところでは、絵かきの方から都合五十八名ほど選りぬきの……」
「ふーん、してみると、貴様の目論見の芸娼院は、絵かきが大半を占めてしまうんだな」
「是非がござんせん、日本は古来、美術の国柄なんでげすから」
「ふーん」
「それから戯作《げさく》の方なんでげす、これは刺身のツマとして、八名ばかり差加えようてんで……」
「絵かきが五十八人もいて、文書きが八名では比較が取れまい」
「なあに、文書きの方は、どうしようかと考えてみたんでげすが、拙がひそかにこの計画を洩《も》らしやすてえと、ぜひ、幾人でもいいから差加えていただきてえ、絵かきの下っ端で結構、刺身のツマとして、ぜひ差加えていただきてえと、先方から売り込んで来るんでげすから、退けるわけにいかねえんでげす、そこで刺身のツマとして文書きを八名ばかりがところ、差加えてやることに致しやした」
「ふーむ」
「それから、書道の方でがす。次は、役者――この役者てえやつが、おのおの家柄があったり、贔屓《ひいき》があったり、それに頭数が多かったりして、いちばん事めんどうなんでげして、鐚もこれが人選には困難を極めやした」
「ふーん」
「それから、長唄、清元、芸妓の方からは誰々、お女郎の方からはこれこれ――和歌と、発句と、ちんぷんかんぷん――委細のわりふりと、面《かお》ぶれは、この一札をごらん下し置かれましょう」
 こう言いながら、鐚助は枕許の鼻紙袋をかき寄せて、その中から何か書きつけた紙切れの折畳んだのを引っぱり出して、神尾の方へ突き出しました。
「これが、拙の苦心惨憺になる帝国芸娼院の面ぶれなんでげして、これを早く発表いたしますてえと、あっちからも、こっちからも苦情がつく、こういうことは、得てして、お安いところで手っとり早く、でっち上げてしまわなけりゃ物になりやせん」
 神尾は寝ながら、鐚の差出した人選表なるものを受取って、
「ふーん」
と言いながら、面前にひろげて読みはじめている。
 得意気に、側面から、この面色を窺《うかが》いつつ鐚が言いつづけます、
「いかがなもんでげす、多少の議論はございましょうとも、まず、当世、百と限りますてえと、そんなところじゃあがあせんか」
「ふーん」
「あれを取れば、これを捨てなければならん、これを捨てては、あれが立たず……という苦心惨憺のところを買っていただきてえ」
「ふーん、何だと、ひとつ読み上げてみようか。まず絵かきで、狩野迷川院、谷文昌――それから、歌川虎吉に、国定国造、ふーん、おれの知っている名前もある、知らねえのもある」
「そっちの方は、それは日本絵所人別帳をすっかりそのまま並べたんでげすから、文句はござりますまい」
「ところで文書きの方は――こうと」
「為永春水――柳亭種彦、あたりを筆頭と致しやして、木口勘兵衛、乞田碁監、徳利亀八、
前へ 次へ
全37ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング