いをして立ち上り、
「せっかくだが、こういう挨拶は、わしにも不向きだ、まあ、降りかかった災難だから、御当人が身に引受けるほかには仕方がござんすめえ。仕方がねえから、娘っ子を連れて釜石までおいでなせえ、釜石へ行けば、お前さんを乗せる船が、ちゃあんと着いて待っている、その船にゃ……こらとらより、ずんと優れたエライ方がおいでなさるんだ、その方に相談して何とか始末をつけておもらいなせえ、この捌《さば》きばっかりは兵助の手には負えねえ」
 こう言ったのは、まさしく七兵衛の頼みを正面から突っぱねたもので、同時に兵助は群がる人を呼んで、
「な、お前さんたち、こいつはおれには口がきけねえから、お前たちの方で、この方を釜石の港までお見送り申しな、そうして、今いう通り、そこに結構な大船が着いてござる、その中には、日本一の知恵者がおいでなさるんだから、そちらへ行って、ともかくも申し上げてみな――わしゃ、これで御免を蒙《こうむ》るよ、では七兵衛さん、御縁があったらいずれまた……」
 兵助は、すっくと立って、あとをも振返らずに、たった一人出て行ってしまいます。その袖に縋《すが》ることは、なんぼなんでも七兵衛にはできない。

         八十四

 百姓を斬って、骨《こつ》ヶ原《ぱら》の処刑場《しおきば》の中へ逃げ込んだ神尾主膳は、それと知って思わずギョッとしました。こういう際であるけれども、処刑場ときては、いい気持がしなかったらしい。
 だが、仕方がない、動くのは危険だが、こんな忌々《いまいま》しいところは早く退散してしまいたい。しかし、てんで方角がわからない。
 やむなく、生首《なまくび》の下にひそんで暫く思案をしていると、あちらの一方からチラチラと火の光が見えて、たしかに幾人かの人がやって来る。執念深い追手だ――だが、先方は手に手にカンテラ様のものを携えているが、存外せかない。悠々閑々とカンテラを振り廻しながら歩いている体《てい》は、たしかに人を追っかける追手の気色ではない。
 ややあって、彼等は墓地の真中どころと覚《おぼ》しいあたりへ来て、
「どっこいしょ」
と言って、そこへ何物かを卸して、同時に丸くなって廓座《くるわざ》をこしらえたものらしい。しばらくすると、プシプシと木の燃える音、輪座《くるまざ》になって、そうして焚火をはじめたのだ。焚火の火が赤々と燃え上るにつれて、集まったやからの人品骨柄《じんぴんこつがら》が、こちらの暗いところの神尾主膳の眼にはっきりわかる。今し「どっこいしょ」と言って、何物かをどっさりと地上へ卸したその物体もよくわかる。それは鋤《すき》、鍬《くわ》、鋤簾《じょれん》のたぐいです。そうして五六人、火を囲んだ連中の面ぶれを見ると、よくありがちの労働者――大きな口をあいて、首へよれよれの手拭を捲きつけて、仕事にかかる前のおさき煙草。それを見ると主膳は直ちに、こいつ墓掘りだ、隠亡《おんぼう》共だわい、と気取《けど》りました。隠亡が墓地へ墓穴《ぼけつ》を掘りに来るのはあたりまえの看板だから、少しも恐るるには足りない。少なくとも、自分を執念深く追いかけて来る追手の一隊ではないことは明瞭であるから、その点は主膳も安心したが、さて、隠亡にしても、あいつらがああしている時に、うっかり音を立てて動いては、やはり事こわしの部になる。あいつらが仕事にかかるまで辛抱してやろうという気になりました。
 ところが、その、あいつらの仕事にかかるまでの時間が甚《はなは》だ長い。こっちの気も知らないで、大口をあいて、いよいよ無駄話に夢中である。くだらない者共だと忌々しながら、主膳はそのあいつらの言うことを、巨細《こさい》いちいち耳に受取らないわけにはゆかない立場に置かれてある。その無遠慮な隠亡共の問答の一ふし――
「あしたあ、また、浪人者が八人ばっか、斬られるだあ」
「八人斬られるかね、そりゃ、近ごろの大漁だ、穴の方もそれだけでっかく[#「でっかく」に傍点]掘らざあなるめえ」
「そうだ、こねえだの倍《べえ》くらいに掘らざあなるめえがな」
「近ごろは、浪人者も、でえぶおとなしくなったらしいなあ」
「そりゃ、掃部様《かもんさま》の時代たあ、いくらか違わあな」
「掃部様の時代は凄《すご》かったなあ」
「凄かったあぜ、今日も、明日も、浪人共の首斬り、さらし、束《たば》になって来るだあが、近ごろは浪人者がおとなしくなったなあ」
「浪人がおとなしくなったじゃあるめえ、お役人の方がなまくらになったのじゃあんめえか」
「そりゃ、そうだ、近頃ぁお役人がなまくらになっただあ、浪人者の方は、いい気になって、いよいよあばれ廻ってるだあ」
「薩摩っぽうが、一番たちが悪いちうじゃねえか」
「ううん、長州の方が、もう一層たちがよくねえんだとさ」
「町奉行の方が、浪人者に対《てえ》して怖れをなしてるんだから、いよいよ甘く見られちまわあな、それに比べると、何といっても、掃部様はエラかったな」
「掃部様はエラかったよ、浪人者のめぼしい奴は、片っぱしから引っとらまえて、御三家であろうと、大名であろうと、公卿侍であろうと、容捨はなかったあ、掃部様は豪勢だったよ」
「あの時にお前、やられた侍のうちにゃ、またエライ奴がいたんだてな、長州の吉田寅次郎だとか、越前福井の橋本左内だとか、梅田うんぴん、なんて手合は、ザラにあるインチキ浪士とは違って、惜しい人物だって、みんなが言ってるが、そんなのを片っぱしからとっ捕めえて、命乞いがあろうがなかろうが、南瓜《かぼちゃ》をきるように、首をちょんぎってしまった、あんな芸当は掃部様でなきゃ出来ねえ」
「そうだ、そうだ、このごろの浪人共ののさばり方といったら、いってえどうだ、旗本の意気地なしときたらどうだい」
「全く増公《ますこう》の言う通りだ、どだい徳川の旗本が意気地なしだあから、そうだあから、又者《またもの》の国侍共《くにざむれえども》が、浪士風を吹かして、お江戸の真中をあの通りのさばり返っていやがる、旗本が意気地がねえんだ」
「そうだとも、旗本八万騎が何だい、旗本がすっかり骨無しになっちまったから、浪人がのさばるんだな、徳川の世も、こうなっちゃいよいよお陀仏《だぶつ》だ」
「時勢が変動するよ」
 それを聞くと、神尾主膳はムッと聞き腹です。隠亡風情《おんぼうふぜい》として許し難き冒涜《ぼうとく》の言い草だ、隠亡風情までが、こうまで時の天下を見くびるようになった!
 神尾主膳は、追われている自分の身の危険を忘れて拳を握り、髪の毛を立てて怒りました。

         八十五

 しかし、いくらなんでも、この際、飛び出して、隠亡相手に喧嘩を買って出るほどの無茶も為《な》し難い。やむなく、憤りを抑《おさ》えて、なお元のままでひそんでいると、隠亡の時勢論は焚火の勢いと共にまた火の手をあげる。
「もう一ぺん掃部様が出て来なくちゃ駄目だな」
「そうだ、もう一ぺん掃部様が出て来て、浪人共に目にもの見せてやらねえことにゃ、将軍様が持ちきれめえ」
「いよいよ江戸が将軍職を持ちきれねえとなると、天下はどうなるだあ」
「そりゃ薩摩にやられるだろうてことだぜ」
「薩摩っぽうが天下ぁ取るのか」
「そうよ、薩摩っぽうは、昔から徳川の天下を覘《ねら》ってるんだってじゃねえか」
「いいえ、薩摩より長州の方が上手《うわて》だってえ奴があるよ、徳川の天下ぁ長州が横取りをすることになってるだそうだ」
「太え奴等だな」
「太え奴等だが、こう旗本が意気地がなくっちゃあ、本当に天下を取られてしまうかも知れねえぜ」
「危ねえもんだ」
「どっちでもいいや、薩摩とか、長州とかが天下ぁ取った日にゃ、徳川様ぁどうなるだ」
「この江戸の町はどうなるだ」
「そりゃ、徳川家は亡びるのさ、江戸の町はみんな焼かれて灰になっちまわあな」
「そりゃ大変だ」
「そうなると、お処刑場《しおきば》もいらなくなるな、おいらの仕事も上ったり、食うことができなくなる」
「なあに、おいらたちなんざあ、隠亡の仕事がなければ、また何か稼《かせ》ぐ仕事は出て来らあ、おれたちぁ腕一本ありゃ、食いっぱぐれはねえが、食えなくなるのは旗本だ」
「そうだ、徳川が亡びりゃ、八万騎の旗本の知行が上ったりだ、そうすると、八万枚の干物《ひもの》が出来らあ」
「くさやの干物なら、いつでも値売れがするが、旗本の干物はあんまり売れめえ」
「意気地がねえなあ」
「ほんとに、ひとごとじゃねえ、腹が立つよ、八万人もいたら、薩摩や長州の一つや二つ、何とかなりそうなものじゃねえか」
「ところが、何万枚あったって、いか[#「いか」に傍点]やするめ[#「するめ」に傍点]と同様、骨がねえんだからやりきれねえ」
「骨がねえのかな」
「骨っぽい奴がいねえんだよ、第一、この間の長州征伐を見ろ」
「うん」
「長州征伐でもって、将軍様が出かけてさ、関ヶ原この方の大軍を[#「大軍を」は底本では「大軍が」]集めたのはいいが、鎧《よろい》の着方や、馬の乗り方を忘れた旗本が片っぱしだったんだ」
「そればっかじゃねえ、箱根の山へ行くと、もう足が棒になって、一足も歩けねえなんていう旗本がザラにあった、あれで、鎧を着て戦争をしようてんだからスサまじい」
「そこへ行くと、長州には高杉晋作なんてエラ物《ぶつ》がいて、幕府の兵隊の足許を見くびっちゃって、鼻唄まじりで引寄せてはひっぱたき、引寄せてはひっぱたき、幕府の兵隊を木端微塵《こっぱみじん》にやっつけてしまうというじゃねえか、戦争にならねえ、江戸の方は戦争したって勝つ見込みはねえ、ただ何とかして体裁を作って、早く引上げてえだけの話だってじゃねえか」
「そうなっちゃ、もう、士気が振わねえから、戦《いくさ》なんぞ勝てっこはねえさ」
「旗本が駄目なんだ――だが、長州というやつも図太いなあ、てんで将軍様を嘗《な》めてやがるんだぜ、この前、江戸から、ソラ、中根何とかいう大目附がお使番として長州へ乗込んだろう、あの時、お前、幕府のお使番といやあ、将軍様の名代《みょうだい》だろう、そのお使番を長州がなぶり殺しにしちまったんだぜ、そうしてその言い草が、また図々しい。それをお前、幕府の方で、てんで手出しができねえで、うやむやにされちまったんだから、嘗めたものだ、旗本もこう嘗められちゃたまらねえ」
「それにお前、この骨ヶ原で、あの、それ、吉田寅次郎がお処刑《しおき》になって、首が上ったろう、そうしてお前たちと、あそこの角んところへ胴中《どうなか》を埋《い》けたろう、そうすると、お前、その翌日だったか、もう長州ざむれえ[#「ざむれえ」に傍点]がやって来て、その屍体を掘り出して、首をあの台から卸してつぎ合わせて、同勢が馬に乗り、槍をもって引上げて、上野の三橋の前を大手を振って通って行ったが、町奉行の役人は見て見ねえふりさ。何しても長州ざむれえの元気はすばらしいが、江戸の旗本はみじめなもんだ、骨がねえんだ」
「そうすると、徳川が亡ぼされて、江戸が灰になって、旗本八万枚の干物が出来るのも遠からずだあな」
「遠からずだあ」
 神尾主膳は、もはや我慢なり難く思いました。ところが人里を離れた骨ヶ原の中で、往来の人もない、聞く人もないと思って、出放題も程のあったものだ。隠亡風情《おんぼうふぜい》の身で、将軍家と旗本に向って、聞くに堪えぬ暴言雑言《ぼうげんぞうごん》、憤怒に駆られた神尾主膳は、前後をおもんぱかる暇《いとま》もなく、
「コラ、無礼者、貴様たち、言語道断の代物《しろもの》、覚悟いたせ」
 こう言って、闇中から罵詈怒号《ばりどごう》した神尾主膳の一言に、隠亡どもの驚愕狼狽は譬《たと》うるにものなく、焚火を踏み越え、卵塔を飛び越えて闇中を逃げ出しました。
 隠亡共を叱り飛ばすと共に、神尾主膳もそれと反対の方面へやみくもに逃げ去りました。

         八十六

 それから、神尾主膳は、どこをどうしたか、翌朝は根岸の三ツ目屋敷に戻って来て、思いきり朝寝をして、日のかんかんする時分に、やっと眼が醒《さ》めました。
 眼がさめたけれども、主膳は容易に頭を上げません。こ
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