だから、この首の引導は、ぜひ、お前さんへ先にお頼み申さなくちゃならねえ」
「いや、そういう義理にからまるわけのものじゃねえ、どっちにしたところで、功徳《くどく》のあるなしにはかかわりはねえのだ、遠慮をなさらずにひとつ頼みます」
「いけません、今日のところは、兵助さん、お前さんがこの七兵衛の導師なんだ、わしから先に剃刀を当てる法はねえ」
「ところが、失礼だが、お前さんの方がわしよりいくらか年上かも知れねえ、年役《としやく》ということがある」
「そういうことは、年にかかわるものじゃござらねえ、ここは、兵助さん、お前がまず、わしの頭へ手を下しなさるところなんだ、どうあっても、七兵衛が先に、お前さんのお頭《つむ》へ手を上げるというわけにゃいかねえ」
「それじゃ、この剃刀の引込みがつかねえ、せっかくの発心《ほっしん》が水になる」
「引込みのつくようになさいと申し上げているんじゃございませんか、発心が水になるどころじゃございません、お前さんの発心が、立派に二つになって実を結ぶという道理を、聞き分けておくんなさい」
 そこで二人は相対して、また沈黙の形となりました。かなり長い時の間、二人はまた考え込んだ形で、だまりこくってしまいましたが、七兵衛がどうしても譲って肯《き》かない。その動かない気色《けしき》を見て取った仏兵助は、ついにきっぱりと折れて出ました。
「よろしうがす、そういう次第ならば、七兵衛さん、わしが言い出し発頭《ほっとう》で、失礼だが、お前さんの頭へ手をかけます」
「有難い――ほんとうに、願ってもねえ善智識でございます」
「罰《ばち》が当るだろうなあ」
「どうか、さっぱりとお頼み申します」
「南無阿弥陀仏」
「南無阿弥陀仏」
 二人の口から、あんまり言い慣れない称名《しょうみょう》が、ひとりでに飛び出すと、七兵衛は、仏兵助の前へ正面に向き直って、拝礼するような姿勢をとって首を下げたのは、その髷《まげ》っぷしを充分に切りよいように仕向けたものです。
 兵助はついに剃刀を取り直しました。
 まもなく、まだ黒い血の塊をでも臓腑の中から取り出したもののように、七兵衛の髷っぷしが兵助の手に取り上げられる。
「七兵衛さん、どうも失礼をいたしました、では、これこの通り――このしるし[#「しるし」に傍点]は、わしがしっかりといただきますぜ」
「有難い、有難い」
「では、七兵衛さん、こんどはお前さんに引導を頼むのだ」
「頼まれ冥加《みょうが》とはこのこと……」
 兵助の手から剃刀を受取ると、今度は七兵衛が立ち上り、兵助は、七兵衛が前にした通りの姿勢をとって、正面にうずくまりました。
「南無阿弥陀仏」
「南無阿弥陀仏」
 どちらからともない、たくまざる念仏の声、まもなくすっぱりと、兵助の髷っぷしは七兵衛の手に挙げられてしまいました。
「おしるし[#「しるし」に傍点]をいただきます」
と言って、七兵衛は、兵助がした通り、切り取った兵助の髷っぷしを押しいただいて、ふところへ納めました。

         八十二

 こうして二人は、おのおのの髷っぷしをおのおののふところの中に納め、残った頭上の余髪は手拭でていねいにあしらって、その上へ笠をいただきながら、
「へんてこな蓮生坊《れんしょうぼう》が二人出来上った」
 苦笑しながら笠の紐を結んでいると、後ろの方で、にわかに人声が起りました。
 今も蓮生坊と言ったあやかりでもあるのか、後ろの方で、熊谷《くまがい》こそは敦盛《あつもり》を組みしきながら助くる段々、二心極まったり、この由、鎌倉殿に注進せん――という声ではないが、起るべからざるところに、かまびすしい人声が起って、しかもこちらへ向って大勢が走りでもして来るようです。
「仙台の親分――仏の親分様」
 わめく声は明らかに聞きとれるようになりました。
「聞分けのねえ奴等だ」
 立つ時に子分共にあれほど言い置いて来たのに、なまじ心配になると見えて、あとを慕って来やがったか、ちぇッ! 兵助はこうつぶやいていると、まもなく、木の間の茂みを分けてそこへ姿を現わした一隊は、案の如く数名の子分共と、それからあとは湯治の団体客の一群、それが真中に急仕立ての一梃の山駕籠《やまかご》を取囲んでいる。彼等は息せき切って、この場へ駈けつけて来て、
「親分、済みませんが、おあとを慕って参りました、よんどころない仕儀が出来まして」
「野郎共、あれほど断わって置いたのに、ナゼ来た」
「まあ親分、聞いておくんなさいまし……」
「親分様――わしが一通り申し上げますから、まあ、お聞きなさって下さいまし」
 兵助の子分と、附添の村の老人とが、ハッハッと息をつぎながら、兵助に向って、何をか言わんとして言い切れない、事の体《てい》が合点《がてん》の行かない有様である。なお合点の行かないのは、この同勢が中に取囲んで来た急仕立ての山駕籠の中に、一人の娘が息も絶え絶えに投げ込まれている。
 それは、お雪ちゃんが振袖姿で胆吹を下って長浜へ出たのとは事変り、右の娘は否応なしに、この駕籠へブチ込まれて、やっさ、やっさと大勢のために担《かつ》がれて追いかけて来たものと覚しい。ことになおよく見ると、兵助も、七兵衛も、呆《あき》れの眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ったのは、その駕籠の中の娘が、それがさきほど、七兵衛のために湯壺の中で囮《おとり》に取られた娘に相違ないから、何が何だかわからない面でいると、子分の者と、団体客のうちの口利きが、舌なめずりをしながら次の如く申します。
「親分――いったん男に肌を見られた女は、もう、ほかへお嫁に行けねえんだそうでございます」
 子分の一人が、だしぬけにこう言い出したものだから、兵助が、
「何を言ってやがる」
 そうすると、年役の老人が、
「まあ、親分、お聞き下さいまし、わしらの土地の昔からの習わしでございましてな」
「ふむ」
「昔からのならわしでございまして、娘のうちに男に肌を見られたものは、どんなに身分が違いましょうとも、年合いが違いましょうとも、その男よりほかへは行ってはならねえことになっているんでございます、見たものも因果、見られたものも因果でございまして」
「何だと、何とおっしゃる?」
「そういう習慣《しきたり》でございます、そうして、この娘は、あの場で、こちらのお客様にすっかり見られてしまったんでございますから、もう嫁にやるところもございません、婿《むこ》を取るところもございません」
「ナニ、何とおっしゃる?」
「それのみじゃございません、怪我にでも一人の女の肌を見てしまったものは、否が応でも、その女を自分のものにして面倒を見なけりゃならねえおきて[#「おきて」に傍点]になっているのでございます、それをしなけりゃ村八分、いや、荒神様《こうじんさま》の怖ろしい祟《たた》りがあるのでござんしてな」
「何だ、何だと、おかしな習慣もあるもんじゃねえか」
 兵助も呆《あき》れたが、無言でいる七兵衛はなお呆れていると、年役は続けざまに申しました、
「わしらが方では、名主様のお嬢様がお湯に入っているところを、雇人の作男がふと見てしまったばっかりに、そのお嬢さまは隣村への縁談が破談になり、その雇男を、夫に持たなければならなくなってしまったことなんぞもございます」
「冗談《じょうだん》じゃない、そんなことをしていた日にゃ、娘たちを銭湯へはやれねえ」
と七兵衛が口をさしはさむのを、
「何を申しましても、村の昔からのおきて[#「おきて」に傍点]なんでございまして、このおきて[#「おきて」に傍点]を破ると、孫子まで恐ろしい祟りがございます、そうして、現在、この子はあなた様のために、あの通りの目に会いました、善い悪いは別にいたしまして、これがこの子の運でございます、もうこの娘は、あなた様よりほかに面倒を見ていただく人はございませんから、御迷惑さまながら、どこへでもこの娘をお連れなすっていただきたいのでございます」
「な、な、なんですって」
 七兵衛は眼を剥《む》き出しましたが、
「もし、あなた様がこの娘の面倒を見て下さらなければ、この娘は死ぬよりほかは行き場所のない子なんでございます」
「な、な、なんですって」
 七兵衛は、続けざまにせき込んでしまいました。兵助もまた、あいた口が塞《ふさ》がらない。さしもの二人が立ちすくんでしまいました。

         八十三

 紀州の南方熊楠翁《みなかたくまぐすおう》が、小説大菩薩峠の内容に就いて、近ごろ某氏に寄せられた書簡中に次の如きことがあります。
[#ここから1字下げ]
「又西洋一流ニ、水ニ溺レタル婦女ハ、必ズ救ヒクレタル人ヲ一生嫌フモノニ候、オ角トイフ興行師ガ、房総海ニテ難船シ、浜ヘ打上ツタ所ヲ駒井甚三郎等ニ見出サレ、介抱サレ、引取ラレ、忽《たちま》チ駒井ニ愛恋スル所アリ、コレハ西洋流ニ申セバ有リ得ベカラザル事ニ御座候、日本ノコトハ知ラザルモ、難産ヤ、子宮患ナラ、命ヲ救ヒクレタル医者ヲバ、其婦人ハ一生嫌ヒ、途上ニ会フモ道ヲ避ケテ通レル事、何カノ川柳ニ見及ビタル事アリ、小生ノ宅ノ筋向フノ淵下(明治八、九年迄)毎夏|入水《じゆすい》ノ女アリシ、小生何事モ知ラズ走リ行キ見ルニ、女ノ屍ヲ発見セシ男又ハ見物ニ来タル男ハ必ズソノ秘部ヲノゾキ見ルナリ、コンナ心配アル故、一生溺レタ女ハ救ヒクレタル男ヲ避ケ嫌フ事ハ、日本モ西洋モカハリナキト存候、尤《もつと》モアイリッシュノ婦女ナドハ、裸体ヲ見ラレ、浴場ヲ覗ハレタ上ハ、必ズ其男ノ申シ出ヲ拒マズ、川村トテ明治十八、九年、米国ニ留学セシ男ガ、アイリッシュノ若キ女ノ入浴ノ処ニ行合ハセ、別ニノゾカザリシモ、ソノ女ニススメラレ結婚シ、ソレヨリ非常ニ淪落シ、窃盗罪デ告発サルルニ到リシ事アリ、コレハ既ニ見ラレタル上ハト焼ケ糞ニナル事ト存候(印度モ同風アリ、賤民ガ死人ノ中ニ臥セル所ヘ、方術ヲ修メニ行キシ王女ガ既ニ裸体ヲ見ラレタル上ハト王ガ、其王女ヲ乞食ノ妻トセシコト仏経ニ見エ候)」
[#ここで字下げ終わり]
 いずれにしても習慣の圧力は大きい。すでに白日の下で、衆人の環視する真中で、男に肌へ手を触れられたことは隠す由もない。それは相手が全く見ず知らず、しかも色気《いろけ》があるわけでも、食気《くいけ》があるわけでもなんでもない、一方の生命の危険から、ほとんど天災というよりほかはない女の立場であったに拘らず、男に肌に手を触れられたという一点から言えば、団体の総てが証明しなければならない羽目に置かれた娘の運命は、気の毒千万のものでありました。しかも、その気の毒千万が、一時の急場の怪我だと水に流してしまえない、湯で洗い切ってしまえない、否でも応でも手を触れた男に、これからの運命を托してしまわなければならないとは、何たる不幸であろうぞ。しかも、なお、こういう退引《のっぴき》ならぬ場合の避難の意味で用いたひっかかりが、生涯この一人の女性の面倒を見なければならない負担として引きずられる、ということになってみると、男の方の迷惑もまた名状し難いものと言わなければならない。
 入れかわり立代り事情を述べる一隊の者の口上を聞いているうちに、さすがの七兵衛も、全くむせ返ってしまわざるを得ない。辞退すれば忽《たちま》ちこの娘の生命の問題となる――そうかといって、この身でこのまま、この年をして、この娘を連れてどこへ行ける。
 おおかたの場合に窮するということを知らぬ七兵衛も、今ここでは、全く逃げ場を失って、思慮分別が及ばなくなりました。かなわぬ時の仏頼《ほとけだの》み、おぞくも七兵衛は、またしても兵助の前に兜《かぶと》を脱いで、
「兵助さん――お聞きなさる通りだ、全く以て、こればっかりは挨拶のしようがござんせん、親分、何とかひとつ頼みます」
 頼むと言われて後へは引けないはずの兵助も、この頼みは、よし引受けたと言い切れませんでした。七兵衛が衆に向って挨拶のしようがない如く、兵助は七兵衛に対して返事のしようがない。
 しかし、誰か何とかきっかけをつけなければならない。眼をつぶっていた兵助は、この時、ブルっと身震
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