、山の尾をめぐって、この湯壺の前を通りすがりに、はやこの中の女の数を読んで、選り取りにする場合はあれと、目星をつけていた七兵衛の眼力とすれば怖ろしい。しかし、言葉は人を食ったことほど実着なもので、
「皆さん、どうも、何ともはや、飛んだ御迷惑をかけて相済みません、わしは与兵衛と申す関東の旅の者でござんすが、こっちへ参りまして、よんどころない罪を着たもんでござんすから、お手先に追われて、この始末なんでございますよ――悪いようには致しませんから、まあ、ひとまず、お静かになすって下さいよ」
 これが、はやり切った群集に向って、至極穏かな七兵衛の挨拶なのです。湯壺の中では、おたがいに身体の三分の二は隠されているとは言いながら、泣き叫ぶ娘の細首へ手拭を捲きつけて、それを左右の手に持ちながらの挨拶ですから、手のつけようがないのです。
 ただ、娘が泣き叫ぶ声のすることによって、手拭の締め方が厳しくない――という安心があるだけのもの――
 あれよ、あれよと言うばかりで、手も足も出ない一同に向って、七兵衛がまたおだやかに挨拶をつけ加えました、
「わしも、悪いことは悪いで、罰をのがれようとは申しませんが、何をいうにも今度のことは旅の出来心でござんしてな、ここでむざむざと捕まって、年貢を納めるには早いような気がしますんでな――それにまだいろいろと話をつけて置きたい心残りもあるんでございますから、それらを済まして、これでいいという場合でなけりゃ、お縄にかかりたくねえという身上なんでございます。でございますから、今日のところは見逃していただきてえんだ。そこで、お気の毒だが、このお娘さんを、ちょっとお借り申して、当座の人質というわけなんです、決して、皆さんの心配なさるような、殺すの、なぐさむのというもくろみじゃございません。つまり、皆さんが、どうしてもこの場で、わたしを召捕ろうとこうおっしゃるなら、不憫《ふびん》じゃござんすが、この娘さんを一人、わっしは道連れにつれて行きてえとこう思うんで――もしまた、皆さんが、ここんところ少しの間、目をつぶって、わっしを物の一里ばかり立ちのく間、見のがして下さりさえすりゃあ、この娘を無疵《むきず》で、このまますんなりお返し申すんでございますが、いかがなもんでござんしょう」
 こう言って、群がり迫る人たちに挨拶を試みたが、青くなって静まり返った群集は、急に返答する者がありません。

         七十七

 こういう人質の手段は、あえて新しい手法ということはないが、こういう場合に、こういう手口で用いられると、いくら多勢であるからといって、ちょっとは手も足も、口も出すことができないのです。
 しかし、一度は度を失うてなさん様を知らなかった人だかりも、いつまでもこうして馬鹿な顔をして、当面の芝居ばかりを見せつけられていられるわけのものではありません。
 ことに、七兵衛を追いつめて来た水瓜頭の五六は、御用だ! と言った名目の手前、永く猶予するわけにはゆかない。犠牲の如何《いかん》にかかわらず、するだけのことはしなければならない。
 そこで、咄嗟《とっさ》に身仕度をして、隠すあたりの部分をかくして置いて、おいきた、と飛びかかろうとした時に、団体客の同勢が、それに折りかぶさるように押しふさがりました。
「まあ、お待ち下さいまし、あなた方がお向いなさると、あの子が身代りに殺されてしまいます」
「あの子を殺させては村方へ、わしどもが申しわけがございませぬ、わしたちみんな連れ合うて、機嫌よく出て来たものが、あの子一人を見殺しにして帰れますか」
「あの子の親たちにあわす面《かお》がない」
「罪もないあの子が不憫《ふびん》でございます、お助け下さいませ、あれ、あのように、こちらが向いますと、手拭でグッと締めます、締め殺されてしまいます」
「どうかして、あの子をお助け下さいませ」
「きよちゃん、辛抱してな、わしたちがあんた一人を殺させやせんがな」
「お役人様、お助け下さい」
 村の団体客が身を以て、捕方の行く手に押しかぶさるものですから、捕方もこれをもてあまさざるを得ない。
 といって、あれをあのまま手を束《つか》ねて見ているわけにはゆかない。その呼吸を見はからって、七兵衛は、手拭を締めたり緩《ゆる》めたりして見せる。七兵衛がそんな芝居をしているかどうかは知れないが、見ている者にはそうとしか見えない。捕手が意気込む時には、手拭を持つ七兵衛の拳《こぶし》が緊張し、捕手がひるむ[#「ひるむ」に傍点]時には、七兵衛の手先も緩むかのように見える。
 たまりかねた娘っ子の身うちは、こちらから手を合わせて七兵衛の方を拝み、
「どうぞ、お泥棒様、その娘をお殺し下さいませんように」
「お金で済みますことならば、村方申し合わせて、いくらでもお金を集めて差上げます、どうあっても、その子を殺して下さいませんように」
「お泥棒様、もうし……」
 一方は力を尽して捕方の迫ることを抑《おさ》え、一方は合掌して、七兵衛が犠牲を殺さざらんことを哀求する。この場合、「お泥棒様」と言うて呼びかけたのは、窮せるもまた気の毒なものであるが、彼等としては、差当りこれよりほかの呼び声を知らないらしい。事実、七兵衛が泥棒であるかないか、泥棒であるとすれば、いかなる種類の泥棒であり、いかなる種類の罪を犯しているのかということは、まだ知らない。捕方が召捕りに来たから、悪漢にきまっている、悪漢の大部分は盗賊である、という観念から、盗賊を呼ぶに敬称を以てし、合掌を以てすることも、その心情を察すると気の毒なものがある。
 そこで、湯壺の中の、当の人質の娘はと見れば、これはほとんど失神状態で、締められざるうちに気絶しているようなものです。七兵衛は落着き払って、この人質を扱いながら、一方油断なく、第三、第四の策戦を頭の中にめぐらしてはいるらしい。
 ただ、それを囲む群集の喧々囂々《けんけんごうごう》、紛々乱々だけは如何《いかん》ともなす由がない。手のつけようも、足のつけようも知らない代り、喚《わめ》き叫び、哀《かな》しみ求むる声だけは徒《いたず》らに盛んである。
 この兼合いの期間、やや暫し、後ろの方に物々しげな声があって、
「さあ、みんな、退《ど》いた退いた、騒ぐばっかりで何事もなりゃしねえ」
と言って、人を押しわけて来たのは、親分の仏兵助であります。

         七十八

「さあ、みんな退いた、一人残らず退いた、頭数ばっかり集まったって、脳味噌が働かなけりゃなんにもならねえ」
 人を押し分けて来た仏兵助は、さっぱりした浴衣《ゆかた》をつけて、片脇には別に一抱えの衣類と旅装束、菅笠までを用意している。
 ここで一同は鳴りを静めて、道をあけて通す。
 そうすると、仏兵助は、その最前線にわだかまって、当の相手と、その手ごめの人質との当面に突立ちました。当面へ突立ったけれども、まず相手の当人には言葉をかけないで、左右を顧みて、
「一人残らず、あっちへ行ってくれ、話合いは一人と一人の対談《てえだん》に限る、わしに任してみんな引上げてくれ――野郎共、みなの衆をお連れ申して小屋の中で待っていな」
 これは圧力のある命令でもあり、本来、奥州切っての大親分と聞えた仏兵助の面《かお》で、否《いや》も応《おう》もなく、この場は親分の対談に一切を任せて、一時この場を引上げるよりほかはない。
 暫くして湯壺のあたりは、全くの物静かさを取返してしまい、ただ人質の娘っ子の悶《もだ》え泣く声だけが聞える。
「七兵衛さん、あんまり年甲斐《としがい》もないことをしなさんなよ」
 一抱えの衣裳、旅の品を小脇にかいこんだ仏兵助は、そこで、七兵衛に向って、まず穏かにこう呼びかけました。七兵衛もやさしく受答えして、
「お言葉通り、こんな年甲斐のない真似《まね》をしたくはござんせんが、背に腹は換えられねえんでしてね。だが、わしを七兵衛と御承知のお前さんは、どなたですかね」
「こりゃ申し遅れました、わしは仙台の兵助と申すやくざの老《おい》ぼれでがすよ、それでも人様が、こんな鬼のような野郎を、仏《ほとけ》とおっしゃって下さいます、お見知り置かれ下さいましよ」
「これは恐れ入った御挨拶でござんす、お前さんが、音に聞く仏兵助さんとおっしゃる親分さんでござんしたか。だが仏のお名前に似合わねえすごいお腕で、あんまり旅の者を苛《いじ》めて下さるなよ」
「いや、お言葉でげす、なにもお前さんを苛めるのなんのと、そんな了見《りょうけん》で追いかけて来たんじゃござんせん、神野の旦那に頼まれて、男ずくでよんどころなく……」
「男ずくで、どなたにか頼まれなさるお前さんなら、男ずくで、わたしの方の力になって下すってもいいじゃございませんか、わしゃ、しがねえ旅の者、見のがしておくんなさるのが慈悲というものじゃごあせんか」
「なるほどな、実はね、七兵衛さん、わしも一旦は、仙台の役人から頼まれてお前さんを追いかけてみたけれど、今じゃそれ、舞台が変って、お前さんを助けて上げてえがために、こうして追いかけているのさ。わしの親心がおわかりかえ、武州青梅裏宿の七兵衛さん」
「二言目には、七兵衛さん、七兵衛さんと、馴々《なれなれ》しくおっしゃるが、どうしてまた、わしの名前までそう軽々しく御承知だえ。その猫撫声《ねこなでごえ》が油断がならねえ」
「これには、なかなか深エ仔細があるのさ。で、この通り、人を払ってお前さんと膝づめの対談《てえだん》をつけるつもりで出直して来たんだ。わしの心意気がわかったら、何はともあれ、その娘さんを放してやっちゃくれめえか」
「話があんまり旨過《うます》ぎるなあ、その手で、人質を取上げの、あとは呼子の笛で、者共逃すな、なんて段取りじゃあるめえか」
「御冗談をおっしゃい、いかに何でも仙台の仏兵助といわれる男が、男ずくの対談に、そんな卑怯な手は用いられねえよ」
「じゃあ、親分、この娘っ子を放せば、わしがところを一番、きれいに見逃しておくんなさるか」
「御念には及ばねえ、かわいそうに、罪もねえ女の子を、永くそうしているうちにゃあ、手を下さねえでも死んじまわあな、今のうちに放してやってくんな、お前さんの身上は、わしが請合うよ。いや、請合うまでのことはねえのだ、仙台の方でも、今じゃあ表向、お前さんの罪を問わねえことになっていて、兵助、お前行ってそっと逃がしてやれ、こういう風向きになっているのを、お前は知るめえ」
「知らねえな、そんな旨い話になってるなら有難いんだが、出来心とは言いながら、お家の宝蔵に手をかけたこの七兵衛だ、お前さんも捕まえなければ男が立つめえし、つかまった以上は首をとらなければお役向も面《かお》が立つめえ。こっちにしてみると、行きがけの出来心で、ほんの手慰み半分にやった仕事のしくじりで、奥州外ヶ浜へ来て年貢を納めるなあ、ちっと残念だ。それにしても、死ぬんなら死ぬように、一応挨拶して置きてえところもあって、未練なようだが、今は命が惜しいから、それでこんなにもジタバタしてみるまでのことさ。万一、ここんところ暫くこの首がつなげるものなら、なにもこんな罪な真似をしなくとものことだ。兵助さん、お前の言うことが真実《ほんとう》なら、何か手証《てしょう》を見せておくんなさるめえか」
「そのことだ、正面を切って辞儀をし合うのは、今日はじめてのお前さんに、さし当り、手証といっては何事もねえが、ことわけだけは一遍ここで話してお聞かせしよう。そもそもお前さんという人を、宝蔵破りの大罪人と追いかけてみたのは、当座のこと、今はお前という人が、駒井能登守様の身内だと聞いて、それから扱いが変ったのだ。駒井能登守様は何か仙台のお家と浅からぬ因縁がおありなさるそうだ、で、そっちの方からお前の身性《みじょう》がわかってみると、お前のした仕事も身の慾得じゃねえ、立派な書き物を、見たがっている人に見せてやりてえという親切気から出たことであってみると、しばらく罪を問わねえことにしろ、との上方からの意見なんだ」

         七十九

「なるほど――」
 そこで七
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