まったのは、何か別にさし迫った事情というものがなければなるまいと思われます。
 それはさて置き、船はグングン松島湾をあとにして、早くも大海原へと乗り出してしまいました。いずれへ行く目的かはわからないにしても、その針路の向うところによって見ると、北を指している。
 その夜、波も風も至って穏かです。正面きって海図をながめている駒井甚三郎に向って、田山白雲は、室の一隅の長椅子に寝そべるように巨躯《きょく》を横たえて、磊落《らいらく》な会話を投げかけている――
「駒井さん、さいぜん、あのウスノロの奴の運転ぶりを篤《とく》と視察して来ましたよ、奴、神妙に運転に従事しつつ、ことに拙者の姿を見ると、ふるえ上って、固くなって働いていることが寧《むし》ろおかしい。あらゆる生活に於て、およそ睨《にら》みのきかないこと夥《おびただ》しい我輩も、あいつにばっかりは苦手《にがて》と見えて、拙者の前では、手も足も出ない。だが、ひとたび船の機関をいじらせると手に入ったものです。あいつは、たしかに蒸気船の機関手としては有数な腕前を持っていると認められます、拙者には、船のことは何もわからんが、その態度、調子、呼吸によって、あいつが蒸気船の機関方に熟しきっているのを見て取りましたよ。あのウスノロも、その職務に於ては非凡だ、人間というやつは、どこかに、何か一つは取柄を持っている、ウスノロも、あの一能のために、暫く存在を許されている」
 白雲が、マドロスに就いて、噛《か》んで吐き出すような上げ下ろしを試むると、浮かぬ面《かお》をしている駒井も、
「そうです――あれがいなければ、こう滑らかに船を出すことはできません」
「痛し痒《かゆ》しですねえ。ああいう奴は、厳重な刑罰を加えて、目に物見せて置かなければならぬ奴ですが、暫くその罪を不問の形で、船の進退を托してやるのは、遺憾と言うべきだが、功を以て罪をつぐなわせる政策も、時にとっての応用です」
「他に人がない、人を捨てれば船が廃《すた》るという場合、創業の時代には得てしてそういう経験は有り勝ちだが、最後までそれであってはなるまい」
「無論、あんなのはおっぽり出しても、代りがあるということでなけりゃならん。だが、人を作るというのは一朝一夕にできないです、貴殿にしても、学問の上からは、あらゆる船の学者だが、実地操縦のことは、一朝一夕というわけにはいくまい、拙者の如きも、筆を持たせれば、相当なことはするけれども、船をあずけられては手も足も出ない、その他、乗組の連中、この点に於ては、世界をまたにかけているあのマドロスには逆立ちしてもかなわない。しかし、技能は技能として、船の風紀は風紀の問題です、船の統制上、その風紀を紊乱《びんらん》した奴を、安閑としてそのままには置かれないのは当然です、拙者に於ても帰来早々、断然たる放逐処分を貴君に進言するつもりで意気込んで戻って来たのですが、あいつの操縦の腕を見ると、不覚千万にもその意気込みが少々鈍ってきたのです。どうです、駒井船長、むしろこの際、眼をつぶって、あいつをゆるしてやって、新たに任務を励行させるようにしたら」
「拙者にとっては、許すも許さんもないが、船の乗組全体が、あれに対して、一人も好意を持っておらんのです、毛唐のくせに、日本の女を自由にして、誰はばからず痴態を演じている、それを朝夕見聞して、他の乗組が不平を鳴らすのは無理もない。船長として、船の風紀の上から、あのままにして置くことはできない、それをしないでいると、拙者の威信問題よりも、あいつの一命があぶない、早晩、多数から私刑を受けて、海中へ投げ込まれるくらいのことは、目前に起り兼ねないのだ――船が宮古へ着いた上で、相当の断罪が行われなければなるまい」
「それは、そうなければならぬこと――だが、彼を失ってこの船が動きますか」
「本来、期待していなかった人間だから、彼なしといえども、やれなければならない性質の我々の船なのです、何とか動かないはずはないと思っている」

         六十三

 駒井船長の答えに満足せぬ田山白雲は、
「それはいささか心細い、本来、洲崎海岸《すのさきかいがん》を出るにしてからが、事態に迫られて出たので、準備完了して出たわけではない、昨今、月ノ浦を出たのも同様なのだ、この辺で、未熟な機関方の手にかかって、魚の骨をのどへひっかけたような醜態を演じては、世間の物笑いのみならず、一船全体の生命問題になるでしょう」
「それはわかっている、我々と従来の手勢でも、やってやれない限りはない、絶望というほどではない。やってやれない限りはないと思っているが……」
「しかし、あのウスノロの真似《まね》はできませんな、あのウスノロがやる通り、この通り滑らかに船を運用することは到底不可能でしょう。あいつならば、どんな悪天であろうとも、インド、アメリカの果てまでも平気で乗り切るだけの腕を持ってるが、残念ながら諸君では、世界はおろか、日本の領海でも、まだ全く心許ないと遠慮のないところ、拙者は想像している。もとより、船中の統制と風儀は、それ以上の問題であることは、拙者に於てもわかりきっているが、そこのところをひとつ、何とかうまく調節ができませんかね、今時はやる公武合体とか、相剋《そうこく》の緩和というやつで――どうです、駒井さん、断然あいつを許してしまってやらせたらどうですか、徹底的に」
「断然許すとは、どういう名分によってですか」
「つまり問題は、ただ一つの性の問題に帰着するんですな、そのほかに、あいつは、深いたくらみや、慾望を持てるほどの奴ではないのです、そこで、あの淫奔娘《いんぽんむすめ》を、あなたの仲人の下に、あいつと結婚させてしまったらどんなものでしょう」
「そうすると、私通淫奔を是認した上に、その結婚を成功させてやる、罰すべきを罰せずして、これに自由と放縦を与える、という結果になりはせぬか」
「いや、そうでないです、今までの罪は罪として、船長に代って拙者がひとつ、屹度《きっと》いましめてみましょう、しかる後、彼を正式に結婚の形式を取らしめ、心を入れ替えて職務の励精を誓わせる――という段取りは不自然でないと思われるですが」
「いやしかし、この乗組にも他に若い者がいる、彼一人が細君携帯で、いや、もう少し立入ると、その細君そのものが、果して細君たる検束力ありや否や――」
「ふーん、あの娘の貞操の保証ができませんか」
「そうです」
「そいつは困ったな」
 珍しく、この場では、田山白雲が最初から妥協的に出でている。厳重な刑罰を意気込んで来た白雲の心持が一転して、船の活用のために、どうかして、あのウスノロの存在を取持ってやりたいことに苦心をしている。その特赦の名分を見つけ出すことに苦心をしてやっているが、結局、それも思うようにゆかない。罪は憎いし、人は惜しい。白雲はしきりに当惑しているが、当惑の点より言えば、当の船長たる駒井は、それに幾倍の上を行っているはず、或いはまた、現に相当の断案を持っているのか、さのみ困惑の色を見せないで、
「この問題はただ、一人一箇だけの問題ではないのだ、我等のために、目下の一つの試験問題であると共に、将来、我々の団体のために、身を以て解決して置かなければならない問題だから、深く考えて、強く実行して置かなければならない」
「いかにもそうです。そうして、駒井さん、あなたの腹の中では、もうその解決の道がついているのですか」
「まだ断案までには至っていないのですが、二つの道はたしかにあります」
「それは?」
「単にこの一事件のためではない、我々の社会に、今後必ず繰返して起り来る――我々というよりも、むしろ人間生活全体にいつまでも起って、いつまでも解決しきれない問題の一つの残骸として、その根本的な手段と方法を、研究的に調べて置きたいという拙者の念願は、今日に始まったことではないのです――田山さん、ごらんなさい、私は洲崎時代から、この通り、研究論文を作りつつあるのですよ」
と言って駒井甚三郎は、書架の上から、かなり部厚な草稿を取って田山白雲の眼の前に示しました。

         六十四

 駒井甚三郎は、田山白雲の前に一冊の草稿を提示して、諄々《じゅんじゅん》として語りました――
「日本も、王朝以前は、今日から見れば乱倫と称せらるべき道徳が、公然と行われました。欧羅巴《ヨーロッパ》では今日、宗教の関係で、表面は一夫一婦ということが厳重に守られているけれど、内面は必ずしもそうではない、一夫一婦道徳に対する事実上の反逆者は、その法王をはじめ、数多いことらしい、理論上の反逆者も、拙者が知っているだけでも少ない数ではないのです」
「なるほど――毛唐は、表面なかなかやかましく言うが、裏面はヒドいそうです」
「表裏の反覆するのは、西洋に限ったことはない、到るところにあるのです、偽善というよりは、むしろ人間の通有性、弱点と見た方がいいでしょう。その弱点を覆うのに、或いはそれを向上せしむるのに、道徳を用うるということにもなるのですが、その道徳に異論が出て来る。現に、耶蘇《ヤソ》の教えで、表面一夫一婦に統制されている西洋にも、プラトーというようなエライ学者は公然、婦人の共有を唱えているのですからな」
「婦人の共有と言いますと……つまり、一夫一婦宗教なんという垣を取払って、そうして、人妻に我も恋せめ、我が妻に人も言い寄れ、ということになるのですか」
「妻というものを認めないで、婦人は男子の共有ということになる、反面から言えば、婦人側から言えば、婦人はまた男子を共有するということにもなるのです」
「そうすると、女はみな女郎なんですな、同時に男もみな男郎――男郎というのもおかしなもんだが、そんな乱暴な説を唱える学者があるのですか」
「それは理論で、もとより実行ではありませんが、その理論から出立して、いろいろの是々非々があるようです、物質の共有はよろしいが、婦人の共有はよろしくないという説……」
「それはそうでしょう、現にこの船なぞも、駒井氏の私有とはいうものの、事実は志を同じうする人の共有といったような性質を帯びているに相違ないが、人間をこれと同様に扱って、誰でも乗れる――ということになったら大変だ」
「しかし、理論を究《きわ》める学者連の勝手に言わせると、物も、人も、結局たいした差別はないことになる、あちらには昔から、ユトピアという言葉があるのです、いま言ったプラトーという人が言い出した言葉で、つまり、新しい国を造るということなのです、今までの国家には、いずれにも、今までの歴史と習慣というものがあって、本当に理想の生活を営むことができない、そういう伝統の絶無な社会を想像して、それをユトピア国と名づけ、こうもしたら人間が楽に生活ができるか、ああもしたら人間がよく治まるかと、それを空想に托して書いたものです。そういう類《たぐい》の書物が西洋にはたくさんあるのです、日本の馬琴が書いた夢想兵衛《むそうびょうえ》のような幼稚なものではない、空想とはいえ、なかなかしっかりした根拠を以て書いているが、日本だと、ああいう議論をする書物は、さし当り絶版ものでしょう、ことに最近は――仙台の林子平や、三州の渡辺崋山あたりでさえ、あの通りやられるのだから。しかし、西洋はそこへ行くと、国柄が違うから、言論が自由です――そういうのを読んでみると、奇抜に驚かされもするが、なかなか感心するのもある」
「なるほど、現実には到底できない相談を、小説に書いてみると、書く方も、読む方も、共に愉快で罪がないというのでしょう、貴君はそこへ行くとペロが自由だから、何でも人の知らない書物が読める、羨《うらや》ましいです」
と白雲が、駒井のペロの出来ることを羨ましがっているのは、今日に始まったことではない。ペロというのは、西洋語ということで、白雲の専用慣用語なのですが、駒井は、
「実際、空想だけではつまらないが、そこに科学的の根拠があると、我々には面白いのです、移して以て、実現せしめてみようという気にもなりますからな」
「そうそう、あなたのは確かにその実行力を持っ
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