ていらっしゃる、この船で無人国土をたずねて、理想楽土を打立ててやってみようということが、他人には途方もない空想だが、あなたには目前の実行ですからな」
「とにかく、そういう書物を頻《しき》りにこのごろは読み出しています、こうなると、書物がもっと欲しいです、江戸にいた時、必要以上に買いためて置いたのが、今では大いに助かりますが、それでも不足を感じつつあります、理想の国土へも着いてみたいが、大いに書物の買えるところへも行ってみたいです」
「そりゃ矛盾だ、本が自由に買える国に、人間の自由なぞはありゃしないでしょう」
と、田山が突発的に一喝《いっかつ》したのが、駒井をして考えさせました。
「面白い断定です、書物の自由に買えるところに、人間の自由はない、そりゃ実に面白い警句ですね、田山さん」
「そんなに感心なさるほどの名文句でしたかね」
「名文句ですとも、それを少し言葉を換えて言いますと、言論の自由な国に、人間の自由はない――ということになります」
「左様に訂正なさっても、あえて異議はございません――」
「全く矛盾です、この矛盾が現在の事実だから、いよいよ変なものです、言論の自由、言論の自由と、人は母の乳でも欲しがるように叫びますけれど、言論が自由になればなるほど、人間の自由は奪われる、実に、皮肉な、悲哀な、人間世界の一面です」
「そうですかなあ」
「そうですとも、もっと卑近にうつしてごらんなさい、思う存分、物を言ったり、書けたりする人間に、多くの幸福が与えられますか、言語を持たない空の鳥や、野の獣《けもの》の方が、遥かに人間より自由であり、幸福ではありませんかね」
「そう理窟ぜめにされると――ちょっと迷いますな、何が自由で、何が幸福だか、人間は人間、鳥は鳥、獣は獣ですから、人間に鳥獣の心持がわからないように、鳥獣にも人間の心持はわかりません、要するに自由というのは、したい三昧《ざんまい》をすることが自由で、幸福というのは、欲しいものが何でも享楽ができるということくらいに、片づけて置くよりほかはないではないですか」
田山白雲は放胆的に言いましたけれど、駒井は一概にそれをうけがいませんでした。
六十五
「田山さん、したい三昧するのが自由で、欲しいと思うものが何でも享楽できるのが幸福だというのは一方論で、全体的には成り立ちませんよ、成り立たないのみならず、したい三昧と、享楽主義は、二人以上の社会になると、衝突し、破壊されてしまいます」
「わからないです、我々の頭では、そういう先から先のことはわからないです、そういうことで、あなたと太刀打《たちう》ちするだけの素養が、拙者にはないです、承るだけにしましょう」
「こういうことを言っている人があるのです、つまり男女の関係というもの、性慾のこととか、結婚とかいうものはです、これは本来、人間が快楽をするために存するのではない、役に立つ人間を殖《ふ》やして、その国土をよくするためにすることだ、だから、悪い子供を産むのはいけない、産ませるのはいけない、肉体も、精神も、これならという人間だけに限って結婚をさせ、子供を産ませる――その他の人間には、結婚して子を産むことを許さない」
「そりゃ、甚《はなはだ》しく乱暴ですね、秦《しん》の始皇《しこう》といえども、そういう乱暴はしませんでした、出来のいい奴にだけ女をあてがって、ドンドン子を産ませる、出来の悪い奴には女にさわらせない、女の方から言っても同じことになるでしょう――いい女だけに男をあてがって、醜女はくたばれ――これじゃあ、乱暴ですよ、一揆《いっき》暴動が起りますぜ、日本醜男同盟なんというのが起って、美醜の男女が相乱れて闘う――階級闘争――じゃない、容貌戦争が起りますぜ、笑いごとじゃありません」
「ところが田山さん、それらの学者の説はそう乱暴なものじゃないのです、この書物がそれなのですがね」
と言って、駒井は自分の草稿はさし置き、卓上の洋書を一冊とって、白雲に表紙だけを見せますと、その表紙に大きく太陽が金で打ち出してある。白雲が覚束なくその綴《つづ》りを拾い読みして、
「Campanera ――ケムペーネーラですか」
「この書物は、これを書いた人がやはり無人島を一つ求めて、理想の国家を作るという空想を書いてあるのです、人間の生殖というものは、色慾だの、享楽だのが目的のものではない、最も国家のためになる、最もよき人間を生み出すことである、そこで、男女関係のために一つの役所を設ける、そうして、肉体及び精神ともに申し分のない男女だけが子供を生むことを許される」
「そうなると、やっぱり、肉体及び精神が適合しない男は、指をくわえて見ていなければならない」
「そういう男には石女《うまずめ》――すなわち子を生まない女とか、或いは現に妊娠している女を授けるという例外になっている」
「これはまた、少し驚きました。石女、うまずめですな、石女の認定をどうしてするか、ということはさて置き、現に妊娠中の女を授ける――衛生上はとにかくとして、それでは妊娠させた男が承知しますまい、そうなると夫婦関係などというものは無茶です」
「夫婦関係などは本位でなく、ただ国家のためになる丈夫な子供を産み、為めにならない脾弱《ひよわ》な子供を産ませないようにする、ということが原則になるのです」
「そうですか、まあ、空想として、理窟としてなら、何と言ってもさしつかえないはずです、事実上は問題になりません」
「それから男子は二十一歳、女子は十九歳から、皆の性交が許されるのです、そうして二十七歳まで童貞を守っていることは名誉として表彰される――しかしまた一方性交年齢に達しないうち、どうしても性慾に堪えられない早熟者は、そっとその旨を、かねて定めてある媼《ばあ》さんなり、役人なり、或いは医者なりに向って申し出ると、それらの人が、かねて選定してある石女、あるいは、すでに妊娠中の女を提供してその満足に供する――それから、前に申した十九歳|乃至《ないし》二十一歳以上、身体、精神ともに健全で、産児の有資格者には、一週二回だけ同衾《どうきん》が許されて、その際には男女ともに沐浴《もくよく》して、『すこやかにして美しき子を与えたまえ』と神に祈らなければならぬ、そうして婦人の寝室には胎教のために……」
「まあ、お待ち下さい、そうすると、要するに、男女の夫婦関係というものは認めないで、健康と、精神の資格さえあれば、相手かまわずに、入りかわり立ちかわり性交を許すということになるのですな。驚くべきだ、乱暴だ、乱婚だ、不倫至極だ」
「いや、我々が現在の夫婦関係だけを標準とするから、いかにも乱婚不倫に見えるので、この書物全体の見方から言えば、そう一概には言えないのです、そういう趣意に於ての婦人の共有は、官能や、淫乱の故ではない、肉慾に動かされずして、道徳的国家統制の下に行われるのだから、少しも不合理ではなく、不道徳でもないと断言しています」
「なおくわしく、その理論の細かい点をうかがわないと、そういうことは、いくら学者の議論にしたところが、一概には承服でき兼ねます、一概どころではない、本来、一も二もなく排斥さるべき僻論《へきろん》ですよ――」
「しかし、実際問題として……」
駒井がなお、何とか附け加えようとする時、にわかに、今までスムースな船の進行に異状が起りました。同時に船が、左右へ三つ四つ揺れたかと見ると、ただならぬ物音が、上甲板の一部に於て起ったことがわかります。
六十六
甲板上にあたって何か相当の異変がある、物すごい格闘でも起りつつある、そういう気配を感じたものですから、田山白雲は会議の途中で、船長室を飛び出して見ましたが、来て見ると、なんとなく穏かならぬ気配は残っているが、事件はいち早く消滅してしまっている。簡単に形《かた》がついてしまったのか、そうでなければ白雲|来《きた》ると見て、風を喰《くら》って姿を消したのか、そのことはわかりませんが、白雲は拍子抜けの体《てい》で、いささか茫然自失していると、頭の上で突然に声が起りました。
それは、メイン・マストの上で、清澄の茂太郎が高らかに呼びかけている、
「田山先生、田山先生、よいところへおいで下さいました、只今この下で大騒動が起りました」
「何だ、どうしたのだ」
「一人の女を、三人の男が争っていたのです」
「ナニ」
「田山先生、あたいは最初からこの柱に上っていたのですから、見るつもりもなく、一切を見届けました、その顛末《てんまつ》をお話ししようと思います」
「巧者ぶりな口を利《き》かずに、真直ぐに言ってみろ、いったいどうしたというのだ」
「では、真直ぐに、見たままを言ってしまいましょう、だが、恥かしいなあ」
「何だ、何が恥かしい」
「だって、見たままを率直に言える場合と、言えない場合とがありますもの」
「相変らず生意気な言葉づかいだ」
「見たままを率直に言えないからといって、それが必ずしも不正直だとは言えない場合があります」
「何でもよいから正直に言え」
白雲は、マストの直下まで来て、柱上の茂太郎を見上げたが、同時に、ただいま物音のけたたましかったと覚える、そのあたりを見直したけれども、多少の物品が狼藉《ろうぜき》の余波をとどめているように見て見られないことはないが、それも夜目《よめ》のことで、何とつかまえどころがあるわけではない。
茂太郎は、いつもに似ず歯切れの悪い返答ぶりで、それ以上は口籠《くちごも》って言わんとしないのであるが、田山白雲はその間から何物かを感得したもののように、しばらく、荒涼たる名残《なご》りのそのあたりの動静を視察し、それ以上に、茂太郎の答を追求することをやめて、さっさと急ぎ足に甲板から船腹の中へ下りて行って見ました。
まず機関室へ行って見ると、マドロスが抜からぬ面《かお》で機関を扱っている。
「タヤマ先生」
この男が、何者よりも白雲を苦手としていることは申すまでもない。船長に対して特に敬意を表せざる場合、時として反抗心を持ち得る場合にも、白雲に対しては一も二もない、むしろ求めざるに迎合して、その甘心を得て置きたい風情《ふぜい》がある。
「マドロス君、君は、今、甲板へ出たかね」
「いいえ、のぼらないです」
「よく職場につとめていたか」
「ええ、この通り、よくつとめていたです」
「そうか」
それ以上に白雲は追究しないで、一通り室内を注視しただけで出て行ってしまいましたが、次に訪れたのは、兵部の娘の寝室でありました。
「御免なさいよ」
返事がない。二度目に、
「寝ていますか」
「…………」
まだ返事がない。中から応答はなくとも、当然、船の舎監であるべき田山白雲は、適当の用意を以て、そっとドアを外から押してみました。
ランプが点《つ》いている。その下の寝台の上に、女が一人、うつぷしに泣いている。すすり泣きをしている。髪も、衣裳も、乱れに乱れている。
「もゆるさん」
いっこう返事はないが、すすり泣きしていることによって、寝入っているのでないことがよくわかる。白雲はそれより以上には立入らないで、その女の荒い呼吸をじっとこちらから見つめているばかりでしたが、暫くして、黙ってそこを出て行きました。
女の寝室を出てから、白雲が戻って来たのは自分の部屋で、そこで外出用のランタンをつけ、それを提《さ》げて、改めて船内の見廻りにかかったのです。この人は、船の中での警視総監を買っている。いや、買わなくても、船長以外に於て、当然その役目を引受けなければならないのは、この人の立場でありました。
そのランプを提げて、いちいちの船室を見舞いますと、ある者はよく熟睡しているが、ある者は眼を醒《さ》ましていて、
「御苦労さまでございます」
と挨拶をする。かくて房州から来た船大工、これは相当の年輩。機関手見習の若い者二人が寝ているところへ来て、
「君――君」
と白雲が呼び立ててみたが、二人はよくそこに寝ているが、醒めて答えようとしない。白雲はそれが当然|狸寝入《たぬきねい》りだということを知り、同時にそ
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