ないで、踏んだり、蹴られたりするのもいやですね――わたしは、自分の名の通り、来世は雪になりましょう、雪となってなら、生れ変って再びこの世へ出てもよいと思います。雪も北国の雪のように、何尺も、何丈も、つもって溶けないような、しつこいのは嫌です、朝降って、昼は消える淡雪《あわゆき》――降っているうちは綺麗で、積るということをしないうちに、いつ消えたともなく消えてしまう、春さきにこの湖の中などへ、しんしんと降り込んで落ちたところが即ち消えたところ、あの未練執着のない可愛ゆい淡雪――あれならば生れ変っても損はない。どうしても二度《ふたたび》この世へ生れ変って来なければならないとしたら、わたしは、春ふる雪となって、またお目にかかることに致します」
六十
舟は、やっぱり、進むともなく、退くともなく、水の上に漂うている。あたりは模糊《もこ》として、磨ぎ水のような水気が流れている。
お雪ちゃんその人が本来のロマンチストであるのに、この時は、前に言う通り、全く度胸がすわって、恐怖と、心配ということから全く解放されて、いよいよ驚くべき大胆と、明瞭との気分になって行くのです。
「ああ、すっかりいい気持になりました、帰ることを思えば、船の足が心配になりますけれど、もう帰らないと心を決めてみますと、船なんぞは、進もうとも、退こうとも、浮ぼうとも、沈もうとも、少しも心配になりません。また引返して閉じこもる夜のあることを思えば、お月見の気晴しも結構ですけれども、もう今晩しか夜がないと思えば、お月様なんぞ、有っても無くても、美しいとも、悲しいとも思いはしません。明日という日があればこそ、今晩に名残《なご》りがないでもございませんが、こうと心持がきまってしまえば、明日というものに未練がございません。死ぬということは愉快なものでございますね、わたし、今までに、今晩のただ今のように、心持の晴々したことはございません、先生、わたしが踊れるなら踊って上げたい、歌えるなら歌って上げたい、この上、なんでも御所望して下さい、おっしゃる通り、なんでも思い切って、あなたのためにして上げるわ。ですけれども、わたしは、歌う人でもなし、踊れる人でもないことがうらみなんです。ああ、死にたい、死にたい、こんなに愉快に死ねる晩は、一生に二度はあるものではございません、先生、早くわたしを死ねるようにして下さい」
猫がまたたびに身を摺《す》りつけるように、お雪ちゃんは船ばたに身悶《みもだ》えをしました。
その時に、模糊として磨ぎ水のようになっている水面の霧の中を漂って、ほんとに微かに物の音が動いたと言って、変態に昂奮する心と、異常に澄みきった神経のお雪ちゃんが、耳を引立てました。
「あ、あなた、鐘が、鐘が鳴りました」
今まで雄弁であった口を沈黙せしめて、しきりに耳を引立てたけれども、鐘の音なるものはもう聞えない。
「今のは、たしかに鐘の音でした。鐘の音が聞えたとすれば、もう陸が近いのです、陸でなければ島でしょう、竹生島へ近づいたのかも知れません、そうでなければ、ああ、そうそう、先生、今のはきっと三井寺の鐘なんでしょう、三井寺の鐘に違いありません、七景は霧にかくれて三井の鐘って、どなたかの発句にありました、ここは琵琶の湖の中に違いありませんから、聞える鐘も三井寺の鐘なんです、鐘の音も多いうちに、三井寺の鐘の音を聞いて死ぬなんて、ほんとに今晩は何から何まで死ぬように出来ている晩なんです、早く死にましょう、夜の明けないうちに……この世も名残《なご》り、夜も名残り、死にに行く身をたとうれば、仇《あだ》しヶ原《はら》の道の霜、一足ずつに消えて行く、夢の夢こそ哀れなれ……あの文章の気分も、今晩という今晩は、すっかりわかりました、あんな浄瑠璃《じょうるり》の中の人たちのように、切羽《せっぱ》つまったやる瀬のない気持でなく、本当にこんなに愉快を尽して死ねるのです、わたしは幸福です、この気分の醒《さ》めないうちに、死ねるようにして下さい……ねえ、あなた、こんなもの取っておしまいなさい、取って海へ投げ込んでおしまいなさい」
お雪ちゃんは物狂わしくさせられて、竜之助の腰の脇差を、思いきって邪慳《じゃけん》に虐待してみましたが、
「でなければ、この刀で、わたしを一思いに……」
死を誘惑する器であると見直してみると、怖《こわ》いものまでが無上に可愛ゆくなる。
「ほんとうに、水で死ねなければ、この刀で……これで、あなたの手にかかって死にたい」
六十一
「刀は男の魂だから、虐待してはいけない」
と、この時はじめて竜之助が、物狂わしいお雪ちゃんを言葉でたしなめました。けれども今晩のお雪ちゃんは、そんなことで聞き入れるお雪ちゃんではありません。
「今となって、男の魂もないでしょう――こんなもの、海へおっぽり投げておしまいなさい」
差していた脇差を邪慳に虐待したお雪ちゃんは、今度は傍らにさし置かれた長いのへ手をかけると、それをも邪慳に引ったくって、船べりから湖水へ向けて、まさに投げこみまじき仕草に及びました。
「それは勘弁してくれ、それはまだ捨てられない品だ」
と竜之助は、片手を殺していながら、片手をのべて、お雪ちゃんの手から、刀の鐺《こじり》をとって、おさえてしまいました。
「そうでしょう、これは、あなたにとって大切なかたみなんですからね、姉さんの心づくしでいただいた新刀第一、堀河の国広なんですから、これは惜しいでしょうよ」
と言うお雪ちゃんの言葉は、今晩に限って、たしかに物《もの》の怪《け》にとりつかれているに相違ないほど、たかぶったかんの物言いぶりです。
「よく、覚えているねえ」
と、子供をあやなすように竜之助が感心すると、
「覚えていなくってどうするものですか、その刀ゆえに、姉さんは殺されたのです、そうして、わたしもまた……」
「飛んでもないことを言う、いつどこで拙者がお雪ちゃんの姉さんを殺しました」
「江戸に近い巣鴨の庚申塚《こうしんづか》というところで、わたしの姉さんが、あなたに刺し殺されたということを夢に見ました」
「それはヒドい、夢に見たことをまことのように、なすりつけるのはヒドい」
「何がヒドいことがあるものですか、姉さんばかりじゃない、いつか一度、わたしもその刀で殺されるんじゃないかと、あの時から覚悟をきめていました、わたしだって、あなたがごらんになっているほど子供じゃありません」
「あの時とは……」
「存じません、存じません、弁信さんに聞いてごらんなさい、あなたは弁信さんを斬りそこねたから、わたしを斬ったのです、いいえ、弁信さんの身代りに、いつかわたしが殺される時があるでしょうと、あの時から覚悟をきめていると申し上げているんです」
「夢と、まことと、一緒にするのみならず、自分の頭で考えていることと、これから後の出来事とを、みんなごっちゃにしたがる、お雪ちゃんの悪い癖だ」
「でも大抵は後の出来事が、みんな最初思った通りになって行くんですもの。あなたは、いつぞやおっしゃいました、この長い方は人を斬る刀で、短いのは物を刺す脇差だ、人がましいものはこれで斬るが、女子供はこれで刺す――脇差で斬るのは畜生か、人間並みに数えられないものに限る、と、わたしに教えて下すったことがございました。わたしなんぞは、とても、この長い刀で斬られるほどのねうちのある人間ではございませんから、この短い方で結構なんでございます」
と言って、お雪ちゃんは、今更のように、今まで投げるの抛《ほう》るのと言った長い刀を、竜之助の手に戻して置いて、また腰にさした脇差の方にとりついたものです。
「わたしなんぞは、とても人間並みに扱っていただけないんですから、この短いので、斬るなり、刺すなり、突くなり、存分になぶり殺しにしていただきましょう。ああ、焦《じ》れったい、こうしているうちに夜が明けたら、どうしましょう。いったい、何刻《なんどき》なんでしょう、たった今、鐘の音が一つ聞えたばっかりで、あとは聞えません、七ツの時が六ツ鳴りて……七ツにも、六ツにも、ここでは、さっぱりわかりません。まあ、さっきからこんな暗くなっているのが、今わかりました、霧の中でむせ返っていたお月様が、今度はほんとうに山の中へ落ちてしまったんでしょう、真暗くなりました。いつまでも、いつまでも、この通り真暗で夜が明けなければいいのだけれども、この世にいる限り、暮れない日というものはなく、明けない夜というものもございません、こうしているうち時が経てば、きっと夜が明けます、夜が明ければ、わたしたちは生恥をさらさなければなりません、そのくらいなら、いっそ……あなたが殺して下さらなければ、わたしの手で死にます――」
お雪ちゃんの昂奮は、まさしく狂乱の域に入って、竜之助に武者ぶりつきましたのを、竜之助は片手で軽くあしらって、
「死にたければ、水へ入らずとも、刃物を用いずとも、いくらでも死に方はあるのだ」
「どんな仕方でもよろしうございます、早く死にたい、早く死なして下さい」
「では、こういうふうにして」
片手を殺している竜之助は、一方の猿臂《えんぴ》をのべて、お雪ちゃんの背後から、咽喉部へぐっと廻して締めるしかたをする。
「あ!」
「それごらん、苦しいだろう、いよいよとなると死ぬのはいやだろう」
「いいえ、そうじゃございません、不意でしたから、少しあわてたまでです、もう驚きません、ですけれども先生、殺して下さるなら、なるべく苦しませないようにして殺して下さい」
「では……こうして、静かに、そろそろと」
「そうして下さるうちに、息がつまって来るのですか」
「そうだ――苦しいといっても一思いだ」
「一思いに、苦しませないでね」
「よしよし」
「あ、切ない」
「まだ締めやしない」
「でも、先生、こうして確かに殺して下さるんですね」
「お前が、あんまり死にたがるから」
「生殺《なまごろ》し……また息を吹き返して、二重の生恥をさらすようなことはございますまいね」
「殺す以上は、そんな未練な殺し方はしない」
「あなたは、そういう仕方で、前に人を殺した経験がお有りなさいますか」
「あるかどうか知らないが、お前の知っている限りで、あの飛騨の高山のイヤなおばさんとやらが、この手で死んだ」
「エ」
「この手で誰かに締められて、そのまま無名沼《ななしぬま》の底に沈んだ、別段、苦しがる暇もなく、安らかに、無名沼の底へ落ちて行ったが、あの婆様も、まさか殺されるとは思っていなかったろう。それと違って今晩は、殺される当人が死ぬほど所望だし、無名沼より有名な琵琶湖の真中だから、死栄《しにば》えがあるだろう」
「エ、先生、何ですって?」
「まあ、死ぬときまったら黙って……」
「いえ、あの、未練ではございませんが、もう一言」
「いや、死ぬときまったら、だまって死ぬがよい」
「…………」
お雪ちゃんは、何か言おうとしたけれども、もう口が利《き》けません、五体を劇《はげ》しくわななかせて、死にもがくように見えましたが、その力はもう及びませんでした。
六十二
目的の成否にかかわらず、三日以内には一応、船へ戻ると言伝《ことづて》をしていた田山白雲は、早くも二日目の晩に飄然《ひょうぜん》として立戻って来ました。
まず驚喜したのは清澄の茂太郎でしたけれども、再応失望せしめたのは、七兵衛親爺を、いずれのところからも同行して来た形跡のないということでした。
つまり、一石二鳥のうちの、マドロスという一鳥は見事に打ち落して、掘出し物の柳田平治を目附として首尾よくこの船へ送りつけて来てはあるが、七兵衛の行方に至っては、甚《はなは》だ手ごたえがないということの報告を聞いてみると、一同が且つは喜び、且つは憂えもしたものですが、それらに頓着がなく、ほとんど、田山の帰ることを待ち切れるか待ち切れないかの呼吸で、その夜のうちに、駒井の無名丸が月ノ浦を立ち出でてしまったのです。
大体に於て、こういう手筈ではなかったのですが、こうもあわただしい船出をしてし
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