ら、
「そのころでも、わたしが、いちばんいやだと思ったのは、白骨にいる時分、あのイヤなおばさんと一緒にお湯に入っていますと、あのおばさんが不意に、わたしに向って言ったことには、お雪ちゃん、隠したって駄目よ、あなたの乳が、こんなに黒くなっているじゃありませんか、と言って、いきなりわたしの乳首をつかまえられた時でした。あの時ほど、わたし、ぞっこん骨身にこたえて、いやな思いをしたことはございません」
なるほど、その時はいやであったろうが、今は、その現実感を通り過ぎてしまって、いやな思い出を、いやな気分なしで、多少の甘え気分をさえ加えて、昔語りにして見せているほどのゆとりが出来ている。
「それから、あのイヤなおばさんが、なおいやなこと、それはいやなことという程度を通り越して、恐ろしいこと、怖いことを、わたしに平気で言って聞かせてくれました――それは、なあ、お雪ちゃん、いやならば水にしておしまいなよ、かまわないから間《ま》びいておしまいなさい――そんなことにクヨクヨするもんじゃありません、水の出端《でばな》なんだもの、わたしなんぞ若い時は……と言ってイヤなおばさんがわたしにあの時、身ぶるいするほどいやな話を、平気で話してくれました。お話だけじゃないのです、わたしの手をとるようにして、ああしなさい、こうしなさい、何を意気地のない、そんなことでどうします、わたしなんぞは……わたしでなくったって、誰だってすることなのよ、若い娘に限ったことじゃないわ、後家さんでも、人のおかみさんでも、一生に一度や二度は誰だって……お雪ちゃん、うぶもいいけれども、度胸を据える時には据えなければ駄目ですよ、こうしてこうするんです、と言ってわたしの手をとって……わたしは、その話だけで、気が遠くなってしまって人心地がありませんでした。イヤなおばさんという人は、ああも度胸がある人、今までにあんなことは朝飯前にやってのけている人……と思って震え上ってしまいましたが、先生、それは、昔の話でございます、今となっては、そんなことは、もう全く気にかけないようになりました。ほんとに、人間の心というものは我儘《わがまま》なものでございますねえ、今では、わたしは、赤ちゃんが一人くらいあってもいいと思いますの、子供というものを手塩にかけて育ててみたら、どんなに楽しいものでしょう、と思い出して、なんだか取返しのつかないような心持にされてしまうことさえ時々あるのですね。お銀様が、こんど長浜へ来たら、わたしに丸髷《まるまげ》を結わせるとおっしゃいました。あの方のおっしゃることは、私たちの頭では想像もできませんけれど、もし、丸髷にでも結って、こうして、この間へ一人、小さいのを置いて、そうして、水入らずのお月見をしたら、どんなに楽しいでしょう」
お雪ちゃんは、子供が甘い夢を見るようにあこがれ出したが、竜之助は動かない。久しぶりの酒の香にうっとりして、我を忘れたものか、酒がこぼれて膝に落つるのも知らないでいると、お雪ちゃんがたまらなくなって、
「先生、わたしにばかり、言いたいことを言わせて置いて、ひどいわ、あなたも何とかおっしゃいよ」
と言って、竜之助の面《かお》を見た時に、
「あっ!」
と言いました。無論、同時に自分の面の色も変ったことでしょう。竜之助は盃《さかずき》を挙げたまま、蝋人形のように白くなって動かない。
「…………」
「先生、大変、いつのまにか舟が沖の方へ向って流れ出しております」
お雪ちゃん一人が狼狽《ろうばい》しきって、立って水棹《みさお》を手さぐりにして、かよわい力で、ずいと水の中へ突き入れてみますと、棹はそのままずぶずぶと水に没入して、手ごたえがありません。
舟は、いつしか遠浅の圏内を外れて、棹の全く立たないところへ来ている。
「あら、先生、どうしましょう、棹が届かなくなりました」
「どれどれ」
竜之助は立って、塚原卜伝でもするもののように、お雪ちゃんの手から、棹を受取って、ずぶりと差し込んでみたけれど、手ごたえがありません。
憮然《ぶぜん》として、見えない眼で水の上をながめている。
二人が月に興じている間に、舟は、棹の立たないところへ来てしまったのです。
舟が棹の立たないところへ来たとすれば、櫓《ろ》を用うるに越したことはないが、この舟には出立から櫓も櫂《かい》も備えて置かなかった。備えれば備うべきはずのものを、櫓を用いないで済む程度のところ、棹を以て用の足りる範囲のところで、浅く遊んで帰ろうとした予定のところを、環境が別になったために、身心ともに知らず識《し》らず深入りしているうちに、舟は独自の漂流をはじめて、深いところへ来てしまっている。
二人が狼狽したのも無理はありません。
竜之助のさし置いた棹を、お雪ちゃんが、取り上げて、またこちらの水に入れてみたけれど、やっぱり駄目でした。
お雪ちゃんは、焦って、棹をあちらこちらへ入れてみたけれども、そのいずれにしても手ごたえがありません。
「先生、どちらもさおが立ちません」
悲観絶望した途端に、はっと竹の棹が手を辷《すべ》って、湖の中へ流れ出してしまいました。
それを捉えんとする手はもう遅い。
「あら、あら、棹《さお》を取られてしまいました」
もう泣き声に近かったのですが、竜之助はそれを慰めるもののように、
「棹を取られたのは仕方がない、人間を取られてはいけません」
「わたしは大丈夫です」
とお雪ちゃんは、うわごとのように言って、悠々と、あちらを独《ひと》り泳ぎをはじめている水馴棹《みなれざお》の形を見つめて、ぼんやりと立っていましたが、やがて、その面に、自暴《やけ》に似たような冷静さが取戻されて来て、
「もう、どうにもなりません、流れ放題……」
五十八
それからあとのお雪ちゃんは、もう櫓《ろ》にも櫂《かい》にも全く未練のない人になりました。
落着いて、じっと漂う舟の行先をわれと見つめて、うっとりしたような形で、竜之助に背を見せておりました。
静かに、滑《なめら》かに、うるおいながら、湖面を音もなく、誰も押す人もなく、さえぎる人もないままに、ゆっくりと、心ゆくばかり漂い行くわが舟の舳先《へさき》を、われと見送っているうちに、全くうっとりした気持になって、右の手を後ろへ軽くささえた時に、左の手は、いつのまにか振袖を掻《か》き上げて、それで口を覆うておりました。この形は、よそから見たら、消えも入りたいような、恥かしさの形に見えますが、お雪ちゃんその人からいうと、有心無心の境を過ぎて、わが行く舟の舳先にうっとりしているばかりです。
そのうちに、天地は、磨ぎ水を流したような模糊《もこ》とした色で、いっぱいに立てこめられました。月は隠れたのではないが、この白色の中に光が、まんべんなく溶け込んだものでしょう。舟は、進んでいるのか、とどまっているのだか、ちっともわかりませんが、漂うてはいるのです。膠着《こうちゃく》しているのではない、浮かれ、うらぶれ、漂いながら、一つところのような湖面に戯れているらしい。
そうして、やや長い時の間、お雪ちゃんは感きわまって、
「死にたい、死にたい」
と、すすり泣きをしました。
「このまま死んでしまいたい」
「そんなに死にたいか」
「山の女王様に合わす面がございませんもの……夜が明けて、人目にかかって、町を晒《さら》されながら帰るのが辛いんですもの……助けられるのがいやなんですもの……いつまでも、いつまでも、こうしてお月見がしていたいんですもの……夜が明けなければいいのに……朝になって、人に面を見られるのが辛い……ああ、夜が明けなければいい……舟が動かなければいい……このまま、舟が、水の底へ、水の底へと、静かに沈んで行ってしまってくれたらなおいい……このまま、死んでしまいたい……先生、あなたも死んで下さらない、このまま、この湖の中で溶けて死んでしまいたい」
と、かぶりを振りながら、お雪ちゃんが言いました。
お雪ちゃんは、せっかくの髪を乱して、泣きながら、
「ねえ、先生、あなたも死んで下さらない、このさき生きていたって、つまらないじゃありませんか。苦しまないで死ねるのは、今晩のような晩だけです、楽しんで死ねるのは、こういう晩でなければございません、二人に死ねと言って棹《さお》が奪われたのです。ねえ、あなた、本当に死んで下さらない、一生のうち、喜んで死ねる日が幾度ありましょう――こういう時に死ななければ、死ぬ時はございません」
お雪ちゃんは、昂奮して言いました。
「ねえ、あなた、御返事がないのは、御承知なんですか。死ぬなら綺麗に死にたいものです、綺麗に死ぬには、死骸をだれにも見せないに限ります、竹生島に近いところは、水が深いそうです、金輪際というところまで底が届いているそうです、同じことなら、そこで死にたい、そうして永久に死骸が、この世の波の上へは現われて来ないところで死にたい。あなた、その水の深さを測って頂戴、そこで死にたい」
とお雪ちゃんが、むつかりました。
「このまま人に助けられて、後ろ指をさされるのは、わたし死ぬよりも辛い、そうかといって、へたに死んで亡骸《なきがら》を二度と世間の業《ごう》にさらすのは、なおいやだ――死ぬんなら、魂も、身体《からだ》も、二度とこの世へ戻って来ないようなところで死にたい……」
五十九
度胸を据《す》えたお雪ちゃんの態度は、驚くばかり冷静になり、その言語もまた甚《はなは》だ雄弁になりました。
「ねえ、先生、あなたのお眼も、それだけ丹精して癒《なお》らなければ、もう癒りませんよ、あきらめた方がよろしいです。よしんば癒ったにしたところで、また同じ世界を、同じ眼で見直さなければならないとしたら、いっそ、苦痛じゃありませんか、一度で済んだ思いを、二度しなけりゃならぬというのは因果でございましょう、癒らないものとおあきらめなさいませ。そうして、全くお眼が見えないものときまったら、生きていたって仕方がないでしょう、不自由な思いをして、人のお世話になりながら生きていたって、つまらないじゃありませんか、ここらで一生涯の見切りをつけて、これからまた出直してごらんになってはいかがです……わたしだって、どうして今日まで生きていたのだか、何のために生かされていたのか、ちっともわかりは致しませんわ。山の女王様のように、すべてに力が張りきって、自分の思うように、この世の中を征服して行こうという意地があるならば格別、そうでもないわたしなんぞ、有っても無くてもいい存在なんです、いくら生きたからとて、ただ繰返すだけのものなんです、本当に快く死ねそうな時、死ねると思う時に死ぬのが勝ちです……そうして、この生涯を改めて出直した方が賢いのじゃないか知ら」
すらすらとお雪ちゃんは、問いつ、答えつしましたが、相手の納得と否とには少しも頓着なしに、
「ですけれども、あらためて出直すということにも考えなくちゃなりません、罪の深いものは次の世では一層悪く出直すよりほかに道がないとすれば、おたがいに、現在よりもっと悪い道を出直さなければならないとしたら、出直すことさえ考えものですね。先生、あなたは生れかわって来るとしたら、来世は何になって、この世へ出たいと思召《おぼしめ》します……」
と問いかけてみたが、相手は返答がない。また返答を予期してもいないから、お雪ちゃんのひとり舞台ではない、独り演説に過ぎない。
「わたしは、もう二度とこの世へは生れて来ないことにきめました、どんなよい身分のところにも生れて来たくはありません、全く浮ばれないところへ沈んでしまいたいのです。けれども、業《ごう》というものが尽きないで、来世もまた、何かの形を取ってこの世へ生れ変って来なければならないとすれば、わたしは何を選びましょう――美しい花になりましょうか、きれいな鳥になりましょうか。それもこれもいやです。花は、しぼんだり、枯れたりするのを見るのがいじらしい。鳥だって、生きたり、死んだり、追われたりしますもの。といって、木や石になって、口も利《き》け
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