、船持と、船で働く人は、すべて湖上のどの地点に集まれという触れが廻ったのは、あの雨のしとしとと降る晩、青嵐居士《せいらんこじ》と不破《ふわ》の関守氏とが多景《たけ》の島を訪れた翌々夜のことで、その夜は月が湖上に晴れておりました。

         五十五

 そういうわけでありまして、その夜は、舟という舟がほとんど、某の地点に向って集合しましたので、長浜の臨湖の一帯には、舟の隻影もなく、別の世界に見るような静寂な夜景でありました。
 ところが二更《にこう》の頃になって、かの加藤清正の屋敷あとといわれる浜屋の家の裏木戸があくと、そこがすでに堀になっていて、刎橋《はねばし》が上げてある、そこへ、静かに立ちあらわれた物影がある。
 島田に結い上げた女の子に手を引かれて、刀を帯びた覆面の人が、静かに木戸を出て来たかと思うと、刎橋へはかからないで、濠《ほり》へ向って下りる切石畳の一段二段を踏みました。都合五段ある石段を下りつくすと、そこに潺湲《せんかん》と堀の水が流れている。その上に一隻の小舟がつながれている。
 無言で少女に手を取られた覆面の人は、やはり無言で舟の中へ導かれると、手さぐりしてそこへ乗り込み、
「よろしうございますか」
 女の子は、ひそかに言葉をかけると、覆面はうなずく。
「では」
と言って、男をさきに乗せて女の子は、思い切って自分もその舟に身をうつしてしまいますと共に、舳先《へさき》の方へ手をやって、形ばかりつないであったともづなを手繰《たぐ》り出しますと、最初にやっと舟へ身をうつした覆面の男が、下り立つと、急にしゃんとした形になって、
「棹《さお》を貸して下さい」
 いったんともづなを手繰った手を休めて、女の子は、舟の中に横にねていた水馴棹《みなれざお》をとって、無言で男の手に持たせますと、男はそれを受取って身構えた形が、最初とは見まごうばかりであります。最初、女の子に手を引かれて裏木戸から出て来た時は、病人ででもあるらしい、たどたどしい足どりでありましたが、すでに舟に身をうつしてから、足を踏んで、棹をとった時の形は出来ておりました。
「よろしい、綱をといて下さい」
と男が、この時また低い声で、はじめて物を言いますと、女の子が、
「先生、大丈夫でございますか」
「もう、こっちのものだ、舟を出しましょう」
「では、綱を引きますよ」
「よろしい」
 そうして、小舟が、するすると段の下を離れて動き出しました。
 市中の濠のことですから、そう広いというわけにいかない。それを巧みに調子を取って、水のまにまに舟をやる腕前は相当に覚えのあるものです。
 その舟のさばき加減を見ると、不安げに見まもっていた女の子は、はじめてホッと安心したらしく、立ち直って油単《ゆたん》をかけて置いた台のものをとると、そこに、お重があり、お銚子が待っている。この舟出を予期して置いたものに相違ない。
 かくて、この小舟は、流水に任せて、もはや眠りに落ちている町の中を、ひそやかに下って行きました。下って行くにしても、その行先は知れたもの。どの流れを行こうとも、この辺の水は皆、集まるところを一つにしている。その一つになって集まるところは、すなわち琵琶湖の湖水以外のいずこでもありません。ですから、この深夜、この異様な男女二人が落ち行くさきだけはいっこう心配するがものはありません。支那の文人ならば当然、月白く、風清し、この良夜を如何《いかん》せん――というところなのでしょう。
 右の小舟は一旦、町中に没しましたが、ほどなく臨湖の岸の一角に出でて下ると、湖面が、海の如く広く眼前に開けて、月が町よりも高く、天心に澄んでいるのを見ました。
「ああ、よいお月様!」
 二人は、まさしく、この良夜を堪え兼ねて、水と月とを弄《もてあそ》ばんとして、夜更けに忍んで風流の舟を浮べたものに相違ないと思うが、更に見ると、良夜があまりに良夜過ぎる。男は動ぜずして水馴竿を繰っているが、女の子は、「ああ、よいお月様」と、まず天心の月に向って讃美を試みたのですが、さて湖面に甚《はなは》だ物足らないものがある。波もない、風もない、満湖の月を受けた水面は、金波銀波に思うさま戯れの場を貸しているが、それでなんだか、物足らないものがあるような気分に堪えられないで、女の子は、
「どうも、なんだか淋しいわ」
 淋しいのはあたりまえである。深夜の月と水とを楽しまんために出て来たのだから、淋しいのが望むところでなければならぬ。賑《にぎ》やかなところが欲しければ、ほかにところはあるだろう。
 舟がない、人の住む町村の岸に当然なければならぬ舟が、今晩に限ってない。それが一種異様な淋しい思いを増させているということが、ややあって後、女の子にもわかりました。

         五十六

 程よいところで、棹《さお》をとどめて、それから二人は打寛《うちくつろ》いで、充分にこの清夜を楽しむことになりました。
 覆面の棹主《さおぬし》が竜之助であり、周旋する女の子がお雪ちゃんであることは、申すまでもありません。
「先生、この辺は遠浅らしうございます、舟はこのままにして置いて、おらくにおいで下さいませ」
と、お雪ちゃんに言われて竜之助は、棹をさし置き、改めてその覆面を取ってみた竜之助の面《かお》は、以前とさして変りはありません。
 そうして、お雪ちゃんのすすめる座蒲団《ざぶとん》の上に坐ると、その間にお雪ちゃんは、重詰をあけ、銚子を取り出して、御持参の酒肴を並べ、
「お一つ、いかがでございます」
と言って、盃《さかずき》をさし出したものです。竜之助はそれを軽く受取って、
「静かだね」
「全く静かでございますよ、今晩はどうしたのか、舟がちっともおりません」
「舟のない湖というものは、想像してもすさまじい」
「火のない火鉢と同じように」
「だが、水入らずに楽しめてよい」
「その点は、気兼ねがなくってよろしうございます、ほんとに、お銀様には済みませんが、あなた様の御不自由なお住居《すまい》では、少しは外出《そとで》ということをなさいませんと」
「お雪ちゃんのおかげだ」
「わたしとしましても、おかげさまで気晴しができようというものでございます」
「そうさ、なにしろ拙者などは、只《ただ》でさえ不自由千万な身を、更に監禁を申し渡されているんだからやりきれない」
「どうして、お銀様という方は、あなたをちょっとも外へお出しにならないのでしょうか」
「あぶないからなんだね」
「危ないと申しましても、子供ではございません……ホ、ホ、ホ、失礼な言い方でございますが、わたしを、こちらへおよこしなさる時も、時々、お前が介抱して外へお出しなさいとは、決しておっしゃいません、決して外出させないように、とばかりおっしゃいました」
「それを、お雪ちゃんによって救われたことが嬉しい」
「でも先生、お銀様に対しては反逆でございますね」
「は、は、は」
と竜之助は、快く盃を引き、お料理を食べました。
「わたしも嬉しうございます、けれども、あとが怖いのです」
「怖いことはないよ」
「叱られますもの」
「殺されるかも知れない」
「ほんとに、殺されてもかまいません、わたしも覚悟の前でございます」
「そんなことは考えないがよい。ああ、久しぶりで酒がうまい、風景は見えないけれども、気が浮いてきた」
「狭いところにいるのと、広いところへ出たのでは、ただそれだけでも人の心持が違って参ります、白骨の山の中を出て、琵琶湖の舟の中で、あなたとお月見をしようとは思いませんでした」
「ああ、今晩の酒は久しぶりで旨《うま》い」
「この辺は、上方《かみがた》に近うございますから、お酒はよいそうでございます」
「お雪ちゃん、冷えてはいけないよ、湖の夜風に風邪をひかしては、拙者が申しわけがない」
「たれに申しわけがないのでございます、もし、わたしに風邪をひかせたと致しますと、先生は、どなたに申しわけをなさるのですか」
「は、は、久しぶりにまたお雪ちゃんの論法がはじまり出した、誰に申しわけということもないが、あたら若い娘に風邪をひかせては毒だ」
「若い娘に限ったことではありません、どなただって風邪をひいては毒でございます。先生、あなたこそ、人の身のことなぞは御心配なさらずに、御自分がお風邪を召してはいけませんよ、あなたに風邪をお引かせ申してごらんなさい、それこそ、わたしが、お嬢様に申しわけがございません、あなた、これをかけていらっしゃい」
 お雪ちゃんは、かねて用意の丹前をとって、竜之助のうしろから羽織らせる。
「飛騨の宮川で火事に逢った時も、少しばかり、お雪ちゃんと船住まいをした覚えがある、あの時のせせこましい思いと違って、ほんとに今晩は気が晴れる」
「そうでございましょうとも、高山の宮川と、近江の琵琶湖では、比較になりません」
「ああ、酒も旨いし、気も晴れる、今晩はいい晩だな。濠《ほり》を下って来る間は、小面倒であったが、ここへ来て全く大海へ出た気持になった」
と言って、竜之助は二はい三ばいとひっかけるものですから、お雪ちゃんが無性《むしょう》に嬉しくなりました。

         五十七

 最初は、周囲の情景に一抹《いちまつ》の淋しさを感じたのが、ここに至って、対人的にお雪ちゃんは、全く嬉しくさせられてしまいました。
 誰にしても、自分のもてなしが人を喜ばすことを見れば、自らもそれを喜ばぬ人はない。特に、今晩のお雪ちゃんは、相手の鬱屈を見兼ねて、自分の独断で、外出禁制の人を、こちらがそそのかして、遊山に連れ出したようなものですから、お雪ちゃんとしては、お銀様を向うに廻しての一大冒険のようなものでしたが、その冒険が功を奏して、御当人をかくまで満足せしめたかと思うと、そのことの喜びで、すべてが忘れられてしまって、この人を喜ばせ、自分も喜びをわかつためには夜もすがら、遊び明かしても悔いないというほどの心持にさせられてしまいました。
「今まで、お酒がおいしいの、気ばらしになったのとおっしゃったことのないあなたから、そうおっしゃられると、わたしは、もうこれより上の本望はございません。ねえ、先生、今晩は、ここで夜明けまででもかまいませんから、昔話を致しましょうよ」
「望むところだよ」
「昔話と言ったって、そう古いことではありません、白骨以来、ほんとうに落着いて、先生からお話を伺う機会も与えられませんでしたし、わたしもなかなかに機会に恵まれませんでした。お目にかかれないのではないのですが、お銀様という方が背後にいらっしゃると思うと、わたしは怖くなって、先生が、わたしの人じゃない、口を利《き》いては悪い他人のようにばっかり思われる心持になって、ほんとに気が引けてなりませんでしたが、今晩はさらりと、わたしもその心配が取れてしまいました。ねえ、先生、それから後の話をして聞かせて下さいな」
「お雪ちゃん、お前から話してごらんなさい」
「では、わたしから昔話をはじめましょう。ねえ、先生、あなたとわたしと二人は、どうして、信州の白骨なんて、あんな山の奥へ行かなければならなかったでしょう」
「病気保養のためだな」
「誰の病気保養のためなんでしょう」
「この眼だ――」
「いいえ、そればっかりじゃありません」
「では、ほかにも病人があったのか」
「ありましたとも」
「それは誰で、何の病気だ」
「先生よりも、わたしの方が病人だ、なんて言う人があるのですから、いやになってしまいました」
「お雪ちゃんが病気、今宵も、そんなにぴんぴんしているお雪ちゃんが」
「ええ、誰が、そんな噂《うわさ》をするのですか、わたし、ほんとうに怖いようですわ」
「どんな噂をしたんだね」
「ねえ、白骨の温泉へ行ったのは、あなたのお眼の療治ということも、目的の一つであったには相違ないですけれど、もう一つは、わたしの病気を直したいためのかこつけだなんて、悪口を言う人があるそうですから、いやになってしまいますわ」
「お雪ちゃんに何の病気があって?」
「何の病気って、先生……きまりが悪いわ」
 お雪ちゃんはポッと面《かお》を赤くしなが
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