なこと知らない知らない、わたしを仏頂寺に憎まれるようにしたのは、いったいだれです」
と言って、女は不意に兵馬の股《もも》をつねりました。
四十七
そういう不意打ちには兵馬も今は慣れている。そこで、痛いっと言って手を振払うようなことはしない。かえって、
「ふーん」
と深く考え込みました。
「仏頂寺という男は、あれでひどく、わたしに惚《ほ》れてたんですからおかしいわ、ああいう人ですから、惚れたとか腫《は》れたとかいうことは顔色には現われませんでしたけれど、ひどくわたしが好きになってしまったのが、運の尽きでしたねえ。そこで、ねえ宇津木さん、だれでも惚れた以上は、きっと嫉《や》くんですね、あれから仏頂寺が嫉き手に廻ったのを、あなた御存じ?」
「そんなことを知るものか」
「つまり、仏頂寺があれから、私とあなたというもののなかを嫉くことといったら、とても黒焦《くろこ》げなんですけれど、ああいう男ですから、顔には現わしません」
「そんなばかなことがあるものか、そりゃ君の己惚《うぬぼれ》で、女というやつは、世界の男がみんな自分に惚れていると考えたがるものだよ。仏頂寺は傷だらけの人間だが、女に参って、やきもきするような男じゃないよ。第一、君と拙者との間を嫉くというのがおかしいじゃないか、なんでもない間柄のことを、嫉妬すべき理由がないじゃないか」
「そりゃ仕方がありません、邪推でもなんでも、嫉くのはあちら様、嫉かれるのはこっちなんですから、そうして、こちら様にだって、嫉かれてこわい筋がないとばっかりは言われませんね」
「それはないよ、仏頂寺に二人の間を嫉かれるような弱味は、拙者に於ては毛頭ありはしないよ、当て違いだよ」
「弱味がないとばっかりは言えません、あなたにはなくとも、わたしの方にあったら、どういたします」
「君は、そんなに何か仏頂寺に対して弱味があったのかな」
「仏頂寺に対してはございませんが、誰かに対してありました」
「誰に」
「誰にですか、仏頂寺を好かないほどの強さでわたしは、誰かを好きでした、仏頂寺を嫌いながら、その人には惚れてたんです、ですから仏頂寺に恨まれるのは、あたりまえでしょう」
「そんなことは拙者は知らん、まあ、歩きながらゆっくり聞くとしよう」
「では、手っとり早く話してしまいましょう、つまり、仏頂寺は、あなたとわたしの仲をしょっちゅう嫉《や》いていたのです、ゆうべも、その恨みを言いにわたしの枕許《まくらもと》へ参りました、そうしていやらしい身ぶりをしては、お楽しみだの、うまくやってやがらあだの、さんざんいやみを並べて行きました」
「つまらんことだ」
「ねえ、宇津木さん、全くつまらないわ、何かあるんなら、あるように嫉かれても仕方がないけれど、こうして清い旅をしているのに、嫉かれちゃ全くつまらない!」
「仏頂寺という奴もばかな奴だな、第一、拙者の手から、君というものを奪って行って、いいようにしたのは彼じゃないか、こっちに恨みの筋はあろうとも……」
「それはいけません、それをあなたがおっしゃれば、わたしは仏頂寺を憎むより、一層あなたというものを憎まなければなりません、あの時の罪は、仏頂寺より、あなたの方が十倍も上なんです」
「でも、あれから君は、仏頂寺にいいようにされた上に……」
「何をおっしゃるのです、わたしが好きこのんで仏頂寺にいいようにさせたとおっしゃるのですか、それはお間違いではございませんか、かよわいわたしを振捨てて、あの人たちの手にいいようにさせた憎い人は誰でしょう、中房から松本へ出る、あの道中の誰かの不人情が、わたしは生涯忘れられません、その生涯忘れられない思いが、宇津木さん、あなたに一生|祟《たた》るから、こればっかりはよく覚えていらっしゃい」
「怖《こわ》いことを言うな」
「あなたは、わたしが仏頂寺にいいようにされたとおっしゃいましたね、そのいいようにというのは、どういうようにされたのですか、それを承りたいものですね、どうせ旅から旅の芸者かせぎのことですから、世間様へ通る操《みさお》がどうのこうのとは申しませんが、あの時は、仏頂寺を憎いと思うよりは、あなたを心から憎いと思いました、今でもあの時のことを考え出すと、憎い!」
痴話も嵩《こう》ずると真剣になることがある。あぶない。その時、行手の谷間から、がやがやと人の声があって、こちらをめがけて悠長に登って来る。そこで人心ついた二人は、痴話喧嘩もそっちのけで、急いでよそゆきの旅人気分を取りつくろって立ち上りました。
四十八
まもなく、ここへ現われて来たのは、珍しく両刀を帯びた検見衆《けんみしゅう》らしいのが二人、間竿《けんざお》を旗差物《はたさしもの》のように押立てさせた従者と、人夫と、都合七八人の一行でありました。
こちらは予期していたことだが、先方は意外に感じて、一度にこちらを注視しましたが、女であり、若いさむらいである、さのみうろんなものの風体《ふうてい》ではないから、得心がいったようにして近づいて、おたがいに挨拶をして、見ると、この検見衆らしいさむらいの老人の方が案外気さくでありまして、
「あなた方、どちらへ行かっしゃる」
と兵馬にたずねたものですから、兵馬が、
「北陸筋へ罷《まか》り通りたいと存じます」
「それはそれは、用心して行かっしゃれ」
「この谷を通って、加賀の白山、あるいは金沢方面へ出られますか」
「出られますとも、出られますとも、白山行きはこの道よりほかはござりませぬぞ」
検見衆の老人は、夢に見た仏頂寺とは大違い、白山へ行くにはこの道のほかないという。してみれば、この谷は、夢で教えられたような怖ろしい谷でもなんでもない。
「有難う存じました」
兵馬は、福松を促して立ち上ると、検見衆の役人が、
「だが、さて、この谷底の村をお通りなさる時は、この際、少々御用心が願いたい」
「え、この村に何ぞ事がござりまするか」
「いや、別に事というわけではござらぬが、斯様《かよう》な平和な村でこそあれ、ただいま少々人心が動揺いたしておりますからな」
「人心が動揺?」
「いや、多少の動揺はどこにもあることで、この村も御多分に洩《も》れないが、何せ山間《やまあい》の、世間の波風とは全く隔絶せられた地境だけに、僅かのことにも動揺する、どうかあなた方も、素通りをなさる分にはよろしいが、何ぞ村人と話をなさる際には、その刺戟を惧《おそ》れていただきたい」
「と申しますると?」
「いや、つまり、この平和な村人に向っては、通常世間のことをあまり話してお聞かせにならぬがよろしい、特に世間の人が、この部落の人をどのように見ているかということなどを、お物語りなさらぬがよろしい。つまり、この村人とは、言葉をお交しにならずに、この村――この一世界の谷底の部落をお早く御通過になってしまわれた方が、おたがいのためによろしかろうと存ずるのです」
「何ぞ、村に危険な予想でもござりますか」
「いや、決して危険なことなどはござりませぬ、見らるる通り、太古の如き静けさの村でござって、住民もまた、極めて古風な質朴《しつぼく》そのものでござる、人を信ずることのみを知って、疑うということを知らない、旅人に危険を与えざるのみか、旅人を愛すること、至れり尽せりですが、それだけ、こちらが自重しなければならないということです」
検見衆の役人の言い分は常識的であるけれども、また、なんとなく奥歯に物のはさまったようなところもある。兵馬は少しそこに了解のできないものがあって、つい、
「まことにつかぬことを承るようですが、白山白水谷の間には、畜生谷と申す難所がござるそうですが……」
「は、は、は」
と役人は軽く笑って、
「畜生谷というのがあるというのは、他境の人のいうことなんです、よし、それに該当するような土地があったにしてからが、土地そのものに住む人が、ここが畜生谷でござると名乗るものですか、彼等自身では、畜生谷の畜生谷たる所以《ゆえん》を自覚していないと見てやるのが、至当なのです。世間に俗に称せらるる畜生谷なるものが、この辺の山間の部落であるかないかということは、拙者とても無条件で御紹介は成りかねる、しかし、この辺に平家の落武者が落ち込んで、八百年来、桃源の夢を結んでいるという伝説は、あながち根拠なしとも言えないようです――彼等は非常に祖先を崇《たっと》びます、墓を愛し守ること無類です。しかし、祖先を崇び、墓を愛し護ることが無類なるが故《ゆえ》に、平家の残党だと断定するわけにはいきません、日本人は誰も先祖を崇び、墳墓の地を愛するのです、墳墓の地を愛して、これを死守せんの心が即ち愛国心の根本なのですから――しかし、この土地の人の、特にこの土地に愛着する所以は、なかなか複雑で、ちょっと説明申し上げ兼ねるが、とにかく、最近少し動揺している、その心を刺戟なさらんように、いささか御用心を加えてお通りになるがよろしい」
「万端のお心づけ、有難う存じます」
かくて、兵馬と福松とは、ここを辞して、右の一行が登って来た山間の部落へと下って行きました。
検見衆《けんみしゅう》一行は、管轄も違い、人柄も違っているせいか、兵馬と福松とを、駈落者気分をもって疑い見ることを少しもしませんでした。まこと田舎《いなか》ながら老練な役人たちだと、兵馬も悪い感じはしませんでした。
四十九
かくして、村へ下りて行ったが、村の静かなることはまた予期以上でありました。もとより太古の如き静かさの村とはいえ、人間が住めば、住むだけのいささかの呼吸と弾力とを感じなければならないのに、死のような静寂さが、兵馬を異常に感ぜしめました。それは特にそう感じたわけではなく、峠の上で、検見衆の役人にあんなことを言われたものですから、それが暗示になって、強《し》いてそんなに感ぜしめられたのかも知れないが、たまたま有る家という家に、人が一人もいない。
家はわりあいに大きいので、材木を豊富に使っているから宏壮な感じさえするのですが、どうも人の気配《けはい》がない。家はなくとも、人があれば賑《にぎ》やかなものだが、家あって人のないのはすさまじい。
かくて、村の中程まで来ると、そこに広大な墓地があって、夥《おびただ》しい人がその墓地に集まっているのを発見しました。夥しいといっても、この山間の部落のことですから知れたものですが、老若男女の数を尽して、ほとんど村民が全部この墓地に集まって来ているもののようです。してみると、葬式でもあるのか。
だがどう見直しても、葬式とは全く見られない。ねんごろに逝《ゆ》くものを葬う重厚な村の儀式気分は少しもなく、みな、憂心※[#「りっしんべん+中」、第3水準1−84−40]々《ゆうしんちゅうちゅう》として墓地に群がり、ある者は墓の前に額《ぬか》ずき、ある者は墓を抱いてみな泣いている。声を上げないで、すすり泣きに泣いている。親が泣くから子も泣く。子が泣けば爺が泣き、婆が泣き、妻が泣けば夫も泣く。皆しくしくと、それぞれの墓を囲んで泣いている。いよいよ葬式とすれば、こんな中心のない葬式というものはない。もし葬式だとすれば一軒残らずの葬式である。一時にそんなに死人が出来たはずはあるまい。この異様なる光景を見ると、誰しも一応は、事の仔細を問いただしてみたくならずにはおられない。あれほどに検見衆の役人から予告を受けた兵馬も、眼前この異様な気分に打たれてみると、このままでは通過し去るに忍びないような、心残りを生じました。
だが、できるだけは無言にして通り去ろうとすると、通り去るには、やはりその人混みの墓地の間を、一応通過しなければならない道筋になっている。それに当惑しながら、ぜひなくその中へ二人が侵入すると、筵《むしろ》をしきひろげていたおかみさんが、あわただしく筵を引っこめて、おわびを言いました、
「お邪魔さまでなあ」
「御免下さいまし、おとむらいでございますか」
おかみさんの好意に対して、福松がこれだけのお世辞を言わずにはおられませんでした。
「おとむらいで
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