きました。
 その翌日の晩もまた、旅寝の仮枕――この仮枕が珍妙なる兼合いで、女に押され押されながら、土俵際の剣ヶ峰で廻り込み廻り込み渡って行く兵馬の足どり、それを女は結局おもしろがって、只寄《ひたよ》せに寄せてみたり、わざと土俵真中へ逃げてみせたり、翻弄《ほんろう》の手を日毎夜毎に用いつくしている。一方、兵馬にとってみると、これもまた平常底の修行の一つだと観念をして、相手になっているらしい。
「ずいぶんお固いことね、破れ傘のようだわ、さすが修行の積んだものはエライわね、感心したげるわ」
とテレてみたかと思うと、
「でも、もう、こっちのものよ、いくらあなたがよそよそしくなさっても、要するに時の問題なのね、あなたの事実上の陥落は、兵を惜しまずに戦いさえすれば、今日にも陥落させてみせたげるわ、でも、それをわたしはしない、しないところが味なのよ」
と、もう占めてしまったようなことを言う。
 兵馬はそれに答えない。今晩もまた、形ばかりなる山小屋の中へ寝ました。
 芸者の福松には、旅行用の合羽《かっぱ》を手厚く着せて寝かせ、自分は、木を集めて火を焚いて、それを伽《とぎ》に、柱があれば柱、壁があれば壁によりかかって、しばしまどろむ。一方を横にさせて、自分は嘗《かつ》て横になるということをしないで終ろうとするこの旅路――その辺は、旅に慣れた兵馬には、あえて苦とはならない。
 だが、彼が悩まされるものは、これにあらずして彼にある。
 女が寝返りをうつたびに、彼の心がひやりとする。その肩から背へかけて露出した肌を、思いきって見せつけられるところへ、真黒くふんだんな髪の毛がくんずほぐれつして乱れかかる。その時に兵馬は、戦《おのの》くばかりの羞恥を感ずる。
 それと、もう一つは、そういう場合になると突然、彼の耳もとで、
「はっ、はっ、はっ」
と、大きく笑う声がする。それは尋常の笑い声ではない、八分の冷笑と、二分の親しみを含んだ、遠慮のない高笑いで「はっ、はっ、はっ」と笑われるごとに、転寝《うたたね》の夢が破れて、と見ると、そこに仏頂寺弥助が傲然として突立っている。無論、仏頂寺あるところの後ろには、丸山勇仙の影がつかず離れずにいる。
「宇津木、うまくやってるな」
 ある晩の如きは、この仏頂寺がこう言って、大きく笑いながら、ニヤニヤとして、現に眼の前に寝ている芸者の福松の襟《えり》に手を突込もうとするところをまで夢に見て、本当に夢が醒《さ》めた時に、福松が、ほとんど裸体同様な寝像になっているのを見て、周章《あわ》てて着物を押しかぶせてやったが、押しかぶせてやってもやっても、わざとするもののように、その着物を引きはいでしまう。
 そういうような場合で、眼前に女の肉体というものを、一つ柳下恵《りゅうかけい》の試験台に借りているのはいいが、夜な夜な襲われる仏頂寺弥助、並びに丸山勇仙の幽霊ばかりは、兵馬も全く悩ませられる。
 はっと、油断すれば、もう仏頂寺弥助の亡霊が現われて哄笑《こうしょう》し、冷嘲し、
「うまくやってるな」
と言う。それともう一段油断していると、仏頂寺そのものが、いよいよ気味の悪い笑い方をして、寝ている女の肉体へ手をあてがおうとする。兵馬は、蠅を追うように、それを払うことをせざるを得ない。
 今日は、ふとまた一つの山路を上りつめている。上りつめて見下ろすと、広い谷がある。道は蜿々《えんえん》としてこの谷を通して北へ貫くのであって、隠れてまた見え出す。その大道の彼方《かなた》を見ると、真白な山が、峨々《がが》として、雪をいただいて聳《そび》えている。
「うむ、なるほど、あれが白山だな」
と兵馬は、山路の上に立って、遥かに山上を見上げていると、例によって、
「はっ、はっ、はっ」
という底冷えのした哄笑につづいて、
「なあに、ありゃ畜生谷だよ」
「えッ」
 見れば、もういつのまにか、仏頂寺弥助が後ろから自分の面《かお》をのぞき込みながら、
「はっ、はっ、はっ、うまくやってるな」

         四十五

「何だ、仏頂寺」
「はっ、はっ、はっ、うまくやってやがら、あれが白山なものか、下を見ろ、畜生谷だ」
 兵馬が上をのみ仰いでいるのに、仏頂寺は意地悪く下を指さしました。
 仏頂寺に指さされてみると、兵馬は、白山をのぞむ眼をうつして、畜生谷を見ないわけにはゆきません。
 先夜の夢で見たような深い谷である。あれより模糊として、そうして広い。木の間を透して見ると、なかなか大きな構えの家の屋根が三々五々と散在している。山間の一大部落であることが、よくわかる。
「うーん」
「どうだ、見えたか」
「見えたよ、あれが有名な畜生谷か」
「そうだとも、宇津木、君の爪先のつん向いた方へ行けば、あの畜生谷よりほかへ行く道はないんだぜ、その足どりで、白山なんぞ覚束《おぼつか》ねえ」
「だって、白山へ行くには、この谷をつっきって行くよりほかに道がないじゃないか」
「そんな眼玉だからいかん、白山へ行く道は、ほかにあるよ、探して見たまえ、探してからなけりゃ、自分で造って行って見給え」
「冗談《じょうだん》いうな――君、知ってるなら教えてくれ」
「はっ、はっ、はっ、俺ゃ最初から、白山の頂なんぞを目標に置いとらん、畜生谷へ行くつもりでやって来たんだから、そんな道は知らん」
「そうか。しかし、道はこの通り立派について、蜿々《えんえん》として帯をめぐらしたように、一旦はあの谷、あの部落を貫通して、それから向うの峠へ抜けるようについている、ほかに道がない限り、これよりほかへは行けようはないから、君が何と言おうとも、わしはこの道を突破する」
「できるものならばやって見給え」
「畜生谷を通過したからとて、身が畜生になるわけではあるまい、もしそうだとすれば、狼谷を通れば狼に食われ、磨針峠《すりばりとうげ》を通れば自分の身が針になる」
「宇津木、小理窟を言うなよ、おれは、親切でもってお前にこの道を通るなと忠告をしているんだ、いや、通るとも、通るまいとも、それはお前の勝手というものだが、この谷を通ることによって、あの雲をいただく白山の上へは出られないということだけを、おれは明言しているのだ。いかにも、お前の言う通り、畜生谷を通ったからとて身が畜生になるわけではないが、白山へ行くのとは道が違うということだけを言って聞かせているのだ」
「忠告は有難う、しかし、君という人間の忠告が、一から十まで聴従できるものとも考えられない」
「はっ、はっ、はっ、以前から信用のないこと夥《おびただ》しい。では、夜の明けない、足許の暗いうちに、仏頂寺は引込むよ」
「まあ、もう少し待ち給え」
「いや、そうしてはおられん、いま仏頂寺のいるところは、世界が違うからな、鶏でも鳴き出したら最後だ、まあ、足許の暗いうちになあ、丸山、お暇とやらかそう」
「そうだ、おい宇津木、用心しろよ」
「どうしても帰るのか」
「帰るよ、宇津木、じゃあ、失敬!」
「そうか」
「はっ、はっ、はっ、うまくやってやがら」
「お楽しみ……」
 こうして、仏頂寺弥助と丸山勇仙が、雲の中へ姿を消してしまいました。その途端に醒《さ》めて見ると、夜風が外でさわぐ。女はと見れば、またしても、だらしのない寝像、せっかく被《かぶ》せてやった衣類を、意地のようにふんばいで、二目とは見られない。
 苦りきった兵馬は、立ってまた衣類をかぶせてやっていると、どこかの空で、なるほど鶏が鳴き出している。

         四十六

 それからまた、旅にかかって、女をいたわりいたわり行くと、まもなく一つの山路に出ました。四五町の登り、大した崖というではなかったが、山路の上に立って見ると、昨夜の夢を思い起さざるを得ない。
 仏頂寺と丸山から指された、峠の谷を思い起さないわけにはゆかない。なにもこの峠が、夢に見た峠と寸分違わないというような、神仙譚《しんせんたん》にありそうな光景を想像するのではない。昨晩の夢とはだいぶ趣きが違っていて、周囲はむろん山また山だが、別に加賀の白山らしいものが雪をいただいた頂を高く抜いているのではない。峠の下の行手は谷になって、部落の屋根が三々五々に見おろせることだけは、夢と符牒《ふちょう》を合わせているようなものだが、それとても、今日までの旅行にありきたりの光景であって、山と谷との間を旅をする者は、どこへ行っても、誰人も経験する道程に過ぎない。それでも兵馬は思い合わされて、異様な感じに襲われながら、女の足をいたわって、そこで暫しの休息をやりますと、
「ねえ宇津木さん、わたし、また怖《こわ》い夢を見ちゃいましたよ、仏頂寺の夢を」
「うむ、仏頂寺の夢をか」
「どうしてまた、毎晩、仏頂寺の夢ばかり見るんでしょうね」
「お前もか」
「では、宇津木さん、あなたも毎晩、仏頂寺の夢をごらんになるのですか」
「そうだよ、実はあれから、毎晩のように仏頂寺に関する夢ばかり見せられてるんだが、愚にもつかないから黙っていたよ」
「そうでしたか、わたしも、あれから、しょっちゅう仏頂寺の夢ばっかり、やっぱり恨まれているんだわね」
「うむ」
「恨まれているのよ。あんなしつっこい人に恨まれちゃ、やりきれないわよ」
「だが、仏頂寺が、そう我々を恨まなけりゃならん筋はない――また、仏頂寺としても、みだりに執念を残すような往生ぎわの悪い男でもないはずだ」
「だって、人間の心持というものはわからないわ」
「こっちこそ、仏頂寺に多大の迷惑を蒙《こうむ》らせられてこそおれ、あれに逆恨《さかうら》みをされる覚えはないのだが、強《し》いて言えばあの小鳥峠の時、ろくろく葬いもしてやらないで、見捨てて来たのが不人情と言えば言われるか知れないが、それは、事情やむを得ないことでもあるし、彼が死んでからのことだから、怨《うら》みとして記憶されるはずはない」
「でも、仏頂寺は、何かあなたの知らないことで、あなたを恨んでいるかも知れないわ」
「いいや、わしには今いう通り彼を恨もうとも、彼に恨まれる筋は微塵もないのだが、君の方には大いに恨まれる筋があるかも知れない」
「あら、しどいわ、仏頂寺なんかに恨まれる筋はなくってよ」
「そりゃ、自分はないと思っても、先方にあるかも知れない」
「あら、しっぺ返しをおっしゃるわ、仏頂寺なんかに恨まれる筋は、わたし毛頭ないわ、仏頂寺を恨む筋はあるか知れないが……誰かの口真似《くちまね》よ、お気の毒さま」
「ふふん、そうは言わせない、第一、この間の小鳥峠にしてからが、わしは一通り介抱してみて、差当りの手数で、できるだけ親切に葬ってやろうとしたのを、人が来るとあぶないからと言って、強いてそれをわしにさせなかったのは誰だ。だから、あの時の怨念《おんねん》が残るとすれば、拙者につかないで、君の上に取りつくのが当然だ」
「あら怖い――あんなことで、仏頂寺の怨念に取りつかれちゃあ、全くやりきれませんねえ、あれは、あの場合、そんな人情ずくにからまれていてはおたがい様があぶないから、やむを得ないわ。わたしが仏頂寺を憎いと思うのは、それより以前のことなのよ」
「それより以前に、君は何か仏頂寺に憎まれるようなことをしたのか、また仏頂寺を憎むような罪を作ったのか」
「知らないわ――そんなこと、あなたがいちばんよく知っておいでのくせに」
「はて、君という女が、仏頂寺に憎まれるようなことをした、仏頂寺を憎むようなことをしたということを、どうして拙者が知っている?」
「まだあんなしら[#「しら」に傍点]を切っていらっしゃる、それは、あなたのほかには誰も御存じないことなのよ」
「はて、拙者はいっこう心当りがないがな。いったい仏頂寺は、君という女をそれほど憎んでいたのか」
「お気の毒さま、憎しみは愛の変形なりって、唐人町の儒者が申しました」
「ナニ、憎しみは愛の変形?」
「はい、愛のないところに憎しみはない、憎しみのあるのは愛のある証拠でありますとさ」
「むずかしいことを言い出したね、してみると、君を憎んでいた仏頂寺は、君を愛していたという理窟になり、仏頂寺を憎み返す君はまた、仏頂寺を……」
「そん
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