くんだも道理、その便所の中には、先客があって、悠々としゃがみ込んで用を足している最中であったからです。
「無作法千万な!」
 誰でもこう思わなければなりません。このお手水場は、お角さんの座敷に専用のお手水場になっている。そこへ、余人が入っていようとは思いもしなかった。且つまた、誰か臨時に借用したにしたところが、用を足しているならばいるように、内鍵というものもあるし、それが利《き》かないとすれば、咳払いぐらいはしてもよかろうもの、それが作法じゃないか。わたしがここへ来た廊下の足音でもわかりそうなものじゃないか。開き戸をあけた音でも気取《けど》れそうなもの。それを内扉をあけるまで、すまし込んでいて、人に恥をかかせるのはともかく、自分もこんなところを見られていい図じゃあるまい、間抜けめ! とお角が腹が立って、出て来たら横っ面を食《くら》わしてやりたい気持で、扉を外から手強く締め返してやろうとしたその途端に、向うにぬけぬけしゃがんでる奴――しかも女ではない男なんです。そいつが、しゃあしゃあとして、
「こんちは」
と言いました。
「畜生!」
とお角さんは、思わずこういって罵《ののし》ろうとしたが
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