いか」――もしかして、こんな皮肉を大旦那様から聞かされでもした日には、わたしはやりきれない、困ったねえ……
 まさか伊太夫が、こんなに急に上方《かみがた》のぼりをして来ようとは夢にも思っていなかったお角、差当っての当惑はかまわないとしても、いささか自分の責任感に及ぶとすると、お角さんの気象としてやりきれないのも無理はない。
 しかしまあ、悪いことをしたわけじゃなし、やむにやまれぬ事情はお話し申せばわかって下さること――観念もして、そこはかと身なりをキリリとしたが、さて出かける前に、お手水場《ちょうずば》へ入って落着いてという気分になりました。
 お角さんがお手水場を志して、なにげなく縁側をめぐって、秋蘭の植えてあるお手水場のところへやって来て、開き戸を手軽くあけて、厠草履《かわやぞうり》をつっかけて、内扉へ手をかけて、それを何気なく引いて開く途端――
「おや――」
 お角さんほどの女が、ここでまた一種異様な叫びを立てて立ちすくんだ[#「すくんだ」に傍点]のが、不思議千万でした。

         十

 便所の内扉を開いたままで、お角さんが、「おや」と言って、異様な叫びを立てて立ちす
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