まで置くわけにはゆくまい。

         五

 徳川時代の法によると、「晒し」というものは、おおよそ三日間を定例とする。三日間を生きたままで晒して置いて、それから生命《いのち》を取るという段取りになっている。その生命を取る方法には、首斬りもあれば鋸挽《のこぎりび》きもある。そのうち、坊主だけは、ただ単に「晒し」だけで生命は取らない。苟《いやしく》も出家の身として「晒し」にかかることは、生命を取る以上の刑罰に価すると認められたのかも知れない。いつのどの頃の大臣の如く、七年も八年も晒し同様の憂目を見せられた上に、更に二年も三年も実刑を課せられるというような深刻な例は、徳川時代にはなかったらしい。
 してみると、あだしごとはさて置き、宇治山田の米友も、出家でない限り、俗人である限り、三日間こうして晒された上で、生命を取られることに運命がきまっている。とすればかわいそうではないか。当人は、この運命を自覚しているや否や、ものすごく沈黙したなりで、決して口をきかない。役人番卒が何と言っても口を利《き》かない。見物が何と言って罵《ののし》っても口を利かない。
 こうして、いよいよ二日間完全に
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