ていればいいやつを、世間の奴があんまりのろのろに見えてならねえものだから、この通り、道を踏みはずしてしまいやしたよ」
「そこへ行くと、おたがいに話がピッタリ合うというもんだ、仙台のお奉行から、お前さんをつかまえてくれと頼まれた時、わしゃ言いましたよ、わしが今日まで見たところでは、盗人《ぬすっと》をする奴は二十五六止まり、大抵、その辺で心《しん》が止まって、三尺高いところへこの笠の台というやつをのっけるのが落ちなんだが、不思議とこの兵助は、四十の坂を越しても、安穏《あんのん》にこうして牢名主をつとめさせていただいている、これというのも親が仏師で徳人であったおかげというものだから、こうしておとなしく牢畳の上で虱《しらみ》を取っております……そういえば七兵衛さんも同じこと、いい年をして、こうして奥州くんだりの湯廻りまでしていられるのは、つまり、何か親の余徳というやつでござんしょう」
「わしゃ、その、親には運が悪いんでしてね、お前さんのように、結構なお徳人を親に持ったと言いてえが、それが言えねえ。だが、お言いなさる通り、この年して、ともかくもこうして、命冥加《いのちみょうが》にありついているのは、何かわっしのために、代って罪ほろぼしをしてくれた徳人があるに相違ねえと思いますよ」
「そうさ、この悪《わる》を今日まで、ともかくもこうして生かして置いて下さったのは、神仏のお恵みか、人間の徳か、考えてみりゃ勿体《もってえ》ねえわけのものだねえ。ところで二人とも、もう年に不足はねえんだ、そうして今わしゃ、つくづく考えたには、今日という今日を縁として、わしゃ、お前さん、こういうことにしてしまいてえと思うんだが、どんなものだえ」
と言って、仏兵助は、自分が被《かぶ》っていた大きな菅笠《すげがさ》をとって地上に置き、それから、ふところへ手を入れて紙入を取り出し、その中から白紙に巻いた短いものを取り出したから、何かと見ると、それは一梃の剃刀《かみそり》でありました。
「七兵衛さん」
と、その剃刀の紙を巻きほぐしながら、兵助が、
「お願いだがね」
「何ですか、兵助さん、いやに改まって気味が悪いようです」
「わしの、この髷《まげ》をひとつ、この剃刀でちょん切っておくんなさい――今日の日を縁に、お前さんに得度《とくど》をしてもらいてえんだ」
「こりゃ滅相《めっそう》な……」
 七兵衛も、あまりの突然な兵助の言い分に面喰ってしまうと、
「とても、わしなんぞは善智識に得度をしてもらうような果報の者じゃねえ、いっそのことお前さんにお願い申して、ここでひとつ、この髷をちょんぎってもらって、それで後生往生の門出とこう腹をきめたんです、どうかひとつ頼みますよ」
と言って、兵助が七兵衛の前へその剃刀をつきつけたものです。

         八十一

 しばらく呆気《あっけ》にとられて、兵助の面《かお》をじっと見ていただけの七兵衛が、
「うーん、こりゃ、よくおっしゃっておくんなすった、そういうことは、こっちが先に気がつかなけりゃならねえことなんです、恐れ入りました、兵助さん、よくお心持はわかりましたから、暫時お控え下さいまし」
「心持がわかってさえもらえば、遠慮をなさることはねえ、どうぞ頼みますよ」
「まあ、お待ち下さい、お前さんにそこまで腹を見せられて、おいそれと剃刀が取れるわけのものじゃございませんわね、申し遅れて恥かしいが、わしの心持も一通り聞いておくんなさい」
と言いながら、七兵衛は自分の被っていた笠の紐《ひも》をあわただしく解いて、それを脱ぐと、兵助の前へその露頭《ろとう》を突き出しながら、
「いかにも、お前さんのおっしゃることがわかりました以上は、そのお頼みとやらも快く聞いて差上げますよ、だが、その前に、わしが心持も見ておもらい申してえ、また、頼みも聞いておもらい申してえ、というのはほかじゃござんせん、お前さんが今おっしゃったお言葉通りのお頼み、まずわしが方から先に聞いていただきてえんです」
「と、おっしゃるのは?」
「お前さんのお頼みは、あとで必ず果して上げますから、その前に、わしがこの髷《まげ》っぷしを、切るなり、坊主にするなりしておもらい申して、それからの上に願《ねげ》えてえんです」
「なるほど――そうおっしゃるのは、いかにも七兵衛さんらしいが、そいつはいけねえ、人の趣向を先取りなんぞは、人が悪いというものだ、お前さんが、すんなりわしの頼みを聞いておくんなさった上は、わしもなんだかお強《し》い申したようで気が置けるけれども、お前さんの頼みというのを聞いて上げますよ、さあ、わしの立てた趣向だから、わしに初筆《しょふで》の華《はな》を持たせておくんなさい」
「そいつはいけません、わしゃお前さんから助けられた命だ、いわば仙台へ来て、お前さんに繋がれたこの首なん
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