、そのしゃがんでいる奴の面を見ると、
「ナンダ、ナンダ、手前《てめえ》は百の野郎じゃないか、このやくざ野郎」
 お角さんの悪態は悪態にならず、全く面負けの、呆《あき》れ返りの捨ゼリフでした。
 こうして、お手水場の中にわだかまっていた奴は、昔は腐れ合いのがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵というやくざ[#「やくざ」に傍点]野郎そのものに紛れもないのですから、忌々《いまいま》しくってたまらないながら、喧嘩にもならない。
「馬鹿野郎、なんだい、そのザマは」
 お角さんは、続けざまに怒鳴りつけてみたまでですが、中の野郎はいよいよイケ図々しく、お尻を持上げない。
「たまに来たものを、そんなにガミガミ言わずとものこっちゃあねえか――」
「相変らず図々しい野郎だねえ。だが表玄関からは敷居が高くて来られもすまいねえ、臭い奴は臭いところが相応だよ」
「おっしゃる通り表向きには、やって来られねえ身分だからかんべんしておくんなさい」
「どうして、わたしがこの宿にいることがわかったんだい」
「どうしてったって、そこは蛇《じゃ》の道は蛇《へび》だあな、お前がこの街道を、どこからどこへつん抜けて、どこへ泊って、どこそこから立戻って、どこそこへ出かけようというのか、こっちじゃもうちゃんと心得たものなのだ。だが、そんなムダを言いてえがためにわざわざこうして臭エところに待っていたんじゃねえ――こういう辛抱もして、一言お前に知らせをしてやりてえと思うことがあればこそなんだ。と言ったところでなにもお前という女に未練未釈があって、こんな臭エ思いをしているわけじゃねえんだから安心しな。手取早く言ってしまえば、それ、お前のところにいた、あの米《よね》とか友《とも》とかいう変てこな兄いが、どうした間違えか役人にとっつかまって、ちょうさん[#「ちょうさん」に傍点]てえ罪で、草津の辻で三日間の晒《さら》し、それが済むとやがて鋸挽《のこぎりびき》になろうてんだ。どうも、むじつ[#「むじつ」に傍点]にしてもあんまり桁《けた》が違い過ぎるようだから、何とかしてやりてえが、おれは世間の暗い身柄で、どうにもならねえ。だが、あの滅法無類の正直者が、何かの間違えでああいうことになって、今日明日のうちに首がコロリという仕儀であってみると、いかにやくざ[#「やくざ」に傍点]野郎でも、あのまま見過ごしにゃできねえよ、あの男とはお角親方、お前の方がずっと縁が深いと思うから、どうにかしてやんな――三日の晒しの後は、鋸挽か、打首、ここに間近え坂本の城ではねえが、今日明日のうちに首がコロリってえんだ――何とかしてやるがいいと思ったら、何とかしてやりねえな」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]のやくざ[#「やくざ」に傍点]野郎からこう言われたお角が、また面《かお》の色を変えました。
「何だって、あの友が、米友の野郎がなにかい、草津の辻で晒しにかけられてるって、そうして今日明日のうちに首がコロリだって、そりゃ本当かい」
「嘘を言ってお前をたぶらかすために、こんな臭い思いはしねえよ」
「ばかにしてやがら」
 お角さんが、ここで捲舌《まきじた》を使ったのは、それはがんりき[#「がんりき」に傍点]を罵《ののし》ったのではない。あの一本調子の、気短かの、グロテスクめが、また何か役人を相手にポンポンやり出して、とっつかまったのだろう、だが、相変らず手数のかかる野郎だ。それにしても、三日間晒しの、今日明日のうちに首がコロリはひど過ぎる。友という野郎は、本来ああいうキップだが、悪いことは頼んだってする野郎ではない。それをどう間違えたか、三日間晒しの、今日明日のうちに首がコロリとは、役目を預かる奴等にも、あんまり目がなさすぎるというものだ。
 そこで、お角が歯噛《はが》みをして、お手水場の床を踏み鳴らしました。

         十一

 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百の野郎といえども、一から十までロクでなし野郎だという限りでもない。それから後暫くあって、臭いところから這《は》い出したこの野郎は、お角親方の特別借切りの一室を一人占めにして、すっかり納まり込み、長火鉢の前で、長煙管でパクリパクリ、そうして煙を輪に吹きながら、ひとり言――
「ふ、ふ、ふ、そうら見ろ、あの女め、火のように怒り出しやがった。だから、言わねえこっちゃねえ、あいつを、ああ嗾《けしか》けて置きぁ、火の中へも飛び込むよ。あの勢いで押しかけて行った日にゃ、やにっこい役人はタジタジだぜ。何とかするよ。何とかしねえまでも、ただじゃあ首にさせねえよ」
と言うのは、つまり、自分の寸法がすっかり図に当ったことを己惚《うぬぼ》れている。いやしくも自分の子分子方であったものが、今日明日のうちに首がコロリという運命に陥っているのを、知らざあともかく、それと聞いて
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