九
悠々と八景めぐりをして、大津の旅籠《はたご》へ戻って来た女軽業の親方お角は、戻って見ると、思いがけなくも甲州有野村の伊太夫からたよりのあったのを発見して驚きました。
伊太夫はすなわちお銀様の父である。自分はこの人からお銀様の附添ならび監督を仰せつかって来たものである。
その大旦那様が、どうしてまた急に、こっちへお出むきになったのか知ら、なんにしてもこれは、取るものも取り敢《あ》えずに本陣へお伺いをしなければならないと、ともの者共に、そのまま折返して外出を言いつけてから、鏡に向って身なりを直し、髪を掻《か》き上げたのも女の身だしなみです。
そもそもお角が、かくもゆるゆると八景めぐりをして道草を食っているのは、一つには胆吹へ道を枉《ま》げた道庵先生を待合せのためであったのですが、その先生は、どうやらまた脱線したらしく、まだなんらのたよりもないところへ、有野村の大尽のお越しという便りを聞いたのは、たしかに意外でした。さても自分は、大尽からあれほどに信任されてお銀様の身を托されながら、お銀様の胆吹へ留まることになったのを留める由もなく、実は、自分の力ではとうてい思いとどまらせることができないと観念して、しばらくお銀様の御意《ぎょい》のままに任せて置き、またせん様もあるべしと腹をきめていたのを、今ここへこうして突然に、その頼まれ主の大旦那様に見えられてみると、お角として、いささか面目ない次第のものがある。つまり、頭のおさえてのないやんちゃ娘、へたに逆に出るよりは、するようにさせて置いて、飽きの来た時分を待つに越したことはないと考えたればこそ、お角も、米友と道庵とを振替えて、しばし京大阪で気を抜いてから、またここへ出直してのこと――とだいたいそんなふうに考えて、一時お銀様の監督を敬遠することが最上の緩和と考えた次第なのですが、そのなかばへ大旦那に来られてみると、さて、どう復命をしたらよいか、さすがのお角さんも、その辺に大へん気苦労を生ぜざるを得ないで、大旦那様に会ったらば、この点、どう申しわけをしたらよかろうかと、それをとつおいつ考えてみる。
「お角さん、お前という人も、存外頼み甲斐のないお人だね、お前さんに限って、娘を引廻せると信じてお任せしたのに、娘を胆吹山なんぞへおっぽり出して置いて、自分ひとり八景めぐりなんぞは、あんまり暢気《のんき》過ぎるじゃないか」――もしかして、こんな皮肉を大旦那様から聞かされでもした日には、わたしはやりきれない、困ったねえ……
まさか伊太夫が、こんなに急に上方《かみがた》のぼりをして来ようとは夢にも思っていなかったお角、差当っての当惑はかまわないとしても、いささか自分の責任感に及ぶとすると、お角さんの気象としてやりきれないのも無理はない。
しかしまあ、悪いことをしたわけじゃなし、やむにやまれぬ事情はお話し申せばわかって下さること――観念もして、そこはかと身なりをキリリとしたが、さて出かける前に、お手水場《ちょうずば》へ入って落着いてという気分になりました。
お角さんがお手水場を志して、なにげなく縁側をめぐって、秋蘭の植えてあるお手水場のところへやって来て、開き戸を手軽くあけて、厠草履《かわやぞうり》をつっかけて、内扉へ手をかけて、それを何気なく引いて開く途端――
「おや――」
お角さんほどの女が、ここでまた一種異様な叫びを立てて立ちすくんだ[#「すくんだ」に傍点]のが、不思議千万でした。
十
便所の内扉を開いたままで、お角さんが、「おや」と言って、異様な叫びを立てて立ちすくんだも道理、その便所の中には、先客があって、悠々としゃがみ込んで用を足している最中であったからです。
「無作法千万な!」
誰でもこう思わなければなりません。このお手水場は、お角さんの座敷に専用のお手水場になっている。そこへ、余人が入っていようとは思いもしなかった。且つまた、誰か臨時に借用したにしたところが、用を足しているならばいるように、内鍵というものもあるし、それが利《き》かないとすれば、咳払いぐらいはしてもよかろうもの、それが作法じゃないか。わたしがここへ来た廊下の足音でもわかりそうなものじゃないか。開き戸をあけた音でも気取《けど》れそうなもの。それを内扉をあけるまで、すまし込んでいて、人に恥をかかせるのはともかく、自分もこんなところを見られていい図じゃあるまい、間抜けめ! とお角が腹が立って、出て来たら横っ面を食《くら》わしてやりたい気持で、扉を外から手強く締め返してやろうとしたその途端に、向うにぬけぬけしゃがんでる奴――しかも女ではない男なんです。そいつが、しゃあしゃあとして、
「こんちは」
と言いました。
「畜生!」
とお角さんは、思わずこういって罵《ののし》ろうとしたが
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