。
こちらは予期していたことだが、先方は意外に感じて、一度にこちらを注視しましたが、女であり、若いさむらいである、さのみうろんなものの風体《ふうてい》ではないから、得心がいったようにして近づいて、おたがいに挨拶をして、見ると、この検見衆らしいさむらいの老人の方が案外気さくでありまして、
「あなた方、どちらへ行かっしゃる」
と兵馬にたずねたものですから、兵馬が、
「北陸筋へ罷《まか》り通りたいと存じます」
「それはそれは、用心して行かっしゃれ」
「この谷を通って、加賀の白山、あるいは金沢方面へ出られますか」
「出られますとも、出られますとも、白山行きはこの道よりほかはござりませぬぞ」
検見衆の老人は、夢に見た仏頂寺とは大違い、白山へ行くにはこの道のほかないという。してみれば、この谷は、夢で教えられたような怖ろしい谷でもなんでもない。
「有難う存じました」
兵馬は、福松を促して立ち上ると、検見衆の役人が、
「だが、さて、この谷底の村をお通りなさる時は、この際、少々御用心が願いたい」
「え、この村に何ぞ事がござりまするか」
「いや、別に事というわけではござらぬが、斯様《かよう》な平和な村でこそあれ、ただいま少々人心が動揺いたしておりますからな」
「人心が動揺?」
「いや、多少の動揺はどこにもあることで、この村も御多分に洩《も》れないが、何せ山間《やまあい》の、世間の波風とは全く隔絶せられた地境だけに、僅かのことにも動揺する、どうかあなた方も、素通りをなさる分にはよろしいが、何ぞ村人と話をなさる際には、その刺戟を惧《おそ》れていただきたい」
「と申しますると?」
「いや、つまり、この平和な村人に向っては、通常世間のことをあまり話してお聞かせにならぬがよろしい、特に世間の人が、この部落の人をどのように見ているかということなどを、お物語りなさらぬがよろしい。つまり、この村人とは、言葉をお交しにならずに、この村――この一世界の谷底の部落をお早く御通過になってしまわれた方が、おたがいのためによろしかろうと存ずるのです」
「何ぞ、村に危険な予想でもござりますか」
「いや、決して危険なことなどはござりませぬ、見らるる通り、太古の如き静けさの村でござって、住民もまた、極めて古風な質朴《しつぼく》そのものでござる、人を信ずることのみを知って、疑うということを知らない、旅人に危険を与えざるのみか、旅人を愛すること、至れり尽せりですが、それだけ、こちらが自重しなければならないということです」
検見衆の役人の言い分は常識的であるけれども、また、なんとなく奥歯に物のはさまったようなところもある。兵馬は少しそこに了解のできないものがあって、つい、
「まことにつかぬことを承るようですが、白山白水谷の間には、畜生谷と申す難所がござるそうですが……」
「は、は、は」
と役人は軽く笑って、
「畜生谷というのがあるというのは、他境の人のいうことなんです、よし、それに該当するような土地があったにしてからが、土地そのものに住む人が、ここが畜生谷でござると名乗るものですか、彼等自身では、畜生谷の畜生谷たる所以《ゆえん》を自覚していないと見てやるのが、至当なのです。世間に俗に称せらるる畜生谷なるものが、この辺の山間の部落であるかないかということは、拙者とても無条件で御紹介は成りかねる、しかし、この辺に平家の落武者が落ち込んで、八百年来、桃源の夢を結んでいるという伝説は、あながち根拠なしとも言えないようです――彼等は非常に祖先を崇《たっと》びます、墓を愛し守ること無類です。しかし、祖先を崇び、墓を愛し護ることが無類なるが故《ゆえ》に、平家の残党だと断定するわけにはいきません、日本人は誰も先祖を崇び、墳墓の地を愛するのです、墳墓の地を愛して、これを死守せんの心が即ち愛国心の根本なのですから――しかし、この土地の人の、特にこの土地に愛着する所以は、なかなか複雑で、ちょっと説明申し上げ兼ねるが、とにかく、最近少し動揺している、その心を刺戟なさらんように、いささか御用心を加えてお通りになるがよろしい」
「万端のお心づけ、有難う存じます」
かくて、兵馬と福松とは、ここを辞して、右の一行が登って来た山間の部落へと下って行きました。
検見衆《けんみしゅう》一行は、管轄も違い、人柄も違っているせいか、兵馬と福松とを、駈落者気分をもって疑い見ることを少しもしませんでした。まこと田舎《いなか》ながら老練な役人たちだと、兵馬も悪い感じはしませんでした。
四十九
かくして、村へ下りて行ったが、村の静かなることはまた予期以上でありました。もとより太古の如き静かさの村とはいえ、人間が住めば、住むだけのいささかの呼吸と弾力とを感じなければならないのに、死のような静寂さが、兵
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