うとするところをまで夢に見て、本当に夢が醒《さ》めた時に、福松が、ほとんど裸体同様な寝像になっているのを見て、周章《あわ》てて着物を押しかぶせてやったが、押しかぶせてやってもやっても、わざとするもののように、その着物を引きはいでしまう。
そういうような場合で、眼前に女の肉体というものを、一つ柳下恵《りゅうかけい》の試験台に借りているのはいいが、夜な夜な襲われる仏頂寺弥助、並びに丸山勇仙の幽霊ばかりは、兵馬も全く悩ませられる。
はっと、油断すれば、もう仏頂寺弥助の亡霊が現われて哄笑《こうしょう》し、冷嘲し、
「うまくやってるな」
と言う。それともう一段油断していると、仏頂寺そのものが、いよいよ気味の悪い笑い方をして、寝ている女の肉体へ手をあてがおうとする。兵馬は、蠅を追うように、それを払うことをせざるを得ない。
今日は、ふとまた一つの山路を上りつめている。上りつめて見下ろすと、広い谷がある。道は蜿々《えんえん》としてこの谷を通して北へ貫くのであって、隠れてまた見え出す。その大道の彼方《かなた》を見ると、真白な山が、峨々《がが》として、雪をいただいて聳《そび》えている。
「うむ、なるほど、あれが白山だな」
と兵馬は、山路の上に立って、遥かに山上を見上げていると、例によって、
「はっ、はっ、はっ」
という底冷えのした哄笑につづいて、
「なあに、ありゃ畜生谷だよ」
「えッ」
見れば、もういつのまにか、仏頂寺弥助が後ろから自分の面《かお》をのぞき込みながら、
「はっ、はっ、はっ、うまくやってるな」
四十五
「何だ、仏頂寺」
「はっ、はっ、はっ、うまくやってやがら、あれが白山なものか、下を見ろ、畜生谷だ」
兵馬が上をのみ仰いでいるのに、仏頂寺は意地悪く下を指さしました。
仏頂寺に指さされてみると、兵馬は、白山をのぞむ眼をうつして、畜生谷を見ないわけにはゆきません。
先夜の夢で見たような深い谷である。あれより模糊として、そうして広い。木の間を透して見ると、なかなか大きな構えの家の屋根が三々五々と散在している。山間の一大部落であることが、よくわかる。
「うーん」
「どうだ、見えたか」
「見えたよ、あれが有名な畜生谷か」
「そうだとも、宇津木、君の爪先のつん向いた方へ行けば、あの畜生谷よりほかへ行く道はないんだぜ、その足どりで、白山なんぞ覚束《おぼつか》ねえ」
「だって、白山へ行くには、この谷をつっきって行くよりほかに道がないじゃないか」
「そんな眼玉だからいかん、白山へ行く道は、ほかにあるよ、探して見たまえ、探してからなけりゃ、自分で造って行って見給え」
「冗談《じょうだん》いうな――君、知ってるなら教えてくれ」
「はっ、はっ、はっ、俺ゃ最初から、白山の頂なんぞを目標に置いとらん、畜生谷へ行くつもりでやって来たんだから、そんな道は知らん」
「そうか。しかし、道はこの通り立派について、蜿々《えんえん》として帯をめぐらしたように、一旦はあの谷、あの部落を貫通して、それから向うの峠へ抜けるようについている、ほかに道がない限り、これよりほかへは行けようはないから、君が何と言おうとも、わしはこの道を突破する」
「できるものならばやって見給え」
「畜生谷を通過したからとて、身が畜生になるわけではあるまい、もしそうだとすれば、狼谷を通れば狼に食われ、磨針峠《すりばりとうげ》を通れば自分の身が針になる」
「宇津木、小理窟を言うなよ、おれは、親切でもってお前にこの道を通るなと忠告をしているんだ、いや、通るとも、通るまいとも、それはお前の勝手というものだが、この谷を通ることによって、あの雲をいただく白山の上へは出られないということだけを、おれは明言しているのだ。いかにも、お前の言う通り、畜生谷を通ったからとて身が畜生になるわけではないが、白山へ行くのとは道が違うということだけを言って聞かせているのだ」
「忠告は有難う、しかし、君という人間の忠告が、一から十まで聴従できるものとも考えられない」
「はっ、はっ、はっ、以前から信用のないこと夥《おびただ》しい。では、夜の明けない、足許の暗いうちに、仏頂寺は引込むよ」
「まあ、もう少し待ち給え」
「いや、そうしてはおられん、いま仏頂寺のいるところは、世界が違うからな、鶏でも鳴き出したら最後だ、まあ、足許の暗いうちになあ、丸山、お暇とやらかそう」
「そうだ、おい宇津木、用心しろよ」
「どうしても帰るのか」
「帰るよ、宇津木、じゃあ、失敬!」
「そうか」
「はっ、はっ、はっ、うまくやってやがら」
「お楽しみ……」
こうして、仏頂寺弥助と丸山勇仙が、雲の中へ姿を消してしまいました。その途端に醒《さ》めて見ると、夜風が外でさわぐ。女はと見れば、またしても、だらしのない寝像、せっかく被《かぶ》
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