木綿着物は身を助く、その余は我をせむるのみなり』――『その余は我をせむるのみなり』というところをよくお考え下さいませ。斯様《かよう》に申しますと、あなた方はまた、必ず不服をおっしゃるに違いない、それは天地というものは、かくの如く冷酷に奪いもするが、またそのように豊富に与えもする、しかるに人間の悪い政治になりますと、奪うばかりで与えるということをしない、搾り取るばかりで、恵みというものが更にない――と、こうおっしゃるに相違ございません。それは全くその通りでございます、さればこそ論語にも、苛政《かせい》は虎より猛なりと記してございます、私とても、その恐ろしい人間の悪い政治を、天地の力と同様に黙従しなければならぬと申すのではございませぬ。それはそれでございます、悪政は、人間力を極めて改める道、責むる道を講じなければなりません、同時に人間には、運命に楽しむ所以を知らしめないと、人間の心が片輪になるということを強く申し上げたいのでございます。今の世には百姓が卑しい、百姓がつまらない、百姓が利に合わない、百姓がいじめられる、百姓ほど苦しいものはないということのみが打込まれ、百姓ほど貴いものはない、百姓ほど楽しいものはない、という大きなる事実が教えられておらないのではないかと、私はそれを考えておりますのでございます。わたくしがもし、五体が満足に生み出されておりましたならば、私は職業として、何よりも農業を選んだに相違ないと存じますのでございます。先年、私が秋田の方に参りました時……」
 ここでようやく青嵐居士が、必死の勇を振って食いとめにかかりました。
「もうわかりました、大体わかりましたよ弁信さん、お前さんという人には全く降参します、おっしゃることも尤《もっと》もです、ですがね、天下の人は、みな太公望でもなければ、諸葛孔明でもなし、二宮尊徳でもございません、多くはその日暮しの空腹の民なんです、彼等は徳を持たず、楽しみを知らない意気地のない人間なんです、彼等が強者に対して立場を守らんとするには、多数団体の力を借りるほかにはどうにもならんでしょう――」
 絶望的に青嵐居士がこういう言葉を投げつけて、お喋り坊主の舌洪の関を食いとめにかかりました。

         四十四

 宇津木兵馬が芸者の福松を連れて、白山白水谷に向っての一種異様な道行《みちゆき》は、件《くだん》の如くにして続きました。
 その翌日の晩もまた、旅寝の仮枕――この仮枕が珍妙なる兼合いで、女に押され押されながら、土俵際の剣ヶ峰で廻り込み廻り込み渡って行く兵馬の足どり、それを女は結局おもしろがって、只寄《ひたよ》せに寄せてみたり、わざと土俵真中へ逃げてみせたり、翻弄《ほんろう》の手を日毎夜毎に用いつくしている。一方、兵馬にとってみると、これもまた平常底の修行の一つだと観念をして、相手になっているらしい。
「ずいぶんお固いことね、破れ傘のようだわ、さすが修行の積んだものはエライわね、感心したげるわ」
とテレてみたかと思うと、
「でも、もう、こっちのものよ、いくらあなたがよそよそしくなさっても、要するに時の問題なのね、あなたの事実上の陥落は、兵を惜しまずに戦いさえすれば、今日にも陥落させてみせたげるわ、でも、それをわたしはしない、しないところが味なのよ」
と、もう占めてしまったようなことを言う。
 兵馬はそれに答えない。今晩もまた、形ばかりなる山小屋の中へ寝ました。
 芸者の福松には、旅行用の合羽《かっぱ》を手厚く着せて寝かせ、自分は、木を集めて火を焚いて、それを伽《とぎ》に、柱があれば柱、壁があれば壁によりかかって、しばしまどろむ。一方を横にさせて、自分は嘗《かつ》て横になるということをしないで終ろうとするこの旅路――その辺は、旅に慣れた兵馬には、あえて苦とはならない。
 だが、彼が悩まされるものは、これにあらずして彼にある。
 女が寝返りをうつたびに、彼の心がひやりとする。その肩から背へかけて露出した肌を、思いきって見せつけられるところへ、真黒くふんだんな髪の毛がくんずほぐれつして乱れかかる。その時に兵馬は、戦《おのの》くばかりの羞恥を感ずる。
 それと、もう一つは、そういう場合になると突然、彼の耳もとで、
「はっ、はっ、はっ」
と、大きく笑う声がする。それは尋常の笑い声ではない、八分の冷笑と、二分の親しみを含んだ、遠慮のない高笑いで「はっ、はっ、はっ」と笑われるごとに、転寝《うたたね》の夢が破れて、と見ると、そこに仏頂寺弥助が傲然として突立っている。無論、仏頂寺あるところの後ろには、丸山勇仙の影がつかず離れずにいる。
「宇津木、うまくやってるな」
 ある晩の如きは、この仏頂寺がこう言って、大きく笑いながら、ニヤニヤとして、現に眼の前に寝ている芸者の福松の襟《えり》に手を突込も
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