兵衛が少し考えさせられました。第一、自分の名を七兵衛と呼びかけて、あらかじめ身性《みじょう》を心得て来ている上に、駒井能登守様の名前までが引合いに出されてみると、兵助の言い分にうらはら[#「うらはら」に傍点]がありとは思われない。七兵衛の心も相当に解けて行ったと見ると、仏兵助が続けて言う、
「というようなわけで、駒井能登守様とおっしゃるお方は、御自分のこしらえた船を、月ノ浦に泊めて置かっしゃるが、仙台のお家では、駒井様には充分の好意を持ちながら、それを長く領分内に泊めて置くということは大公儀《おおこうぎ》に対して憚《はばか》りがあるというようなわけでしてねえ、それで、このほど、駒井様のお船は仙台領をお立ちになってしまったよ」
「へえ、そうですか、では駒井様のお船はもう、仙台領の月ノ浦とやらにはいらっしゃらねえんでございますか、そうして、どこへ行きましたか」
「そこだ――月ノ浦をお立ちになった駒井様のお船はね、仙台領を乗り出すと、表向は江戸の方へ帰るというおふれ込みでしたがね、本当のところは宮古《みやこ》の港へ向けてお立ちになったんだが、その前に釜石《かまいし》の港というのへお着きのはずなんだよ」
「釜石の港というのは、ドコでござんすかね」
「さあ、その釜石の港を言うまでに、ざっとこの辺の地理を言ってお聞かせ申さにぁなるめえ。七兵衛さん、お前さんの足の早いには恐れ入ったが、地の理の暗いのには呆《あき》れましたぜ」
「そりゃ、そうでござんしょう、奥州安達ヶ原の、もっともっと奥へ、こうして追い込まれてみりゃ、一寸先の地理はまっくらやみさ、だからこそ、お前さんに悠々《ゆうゆう》と先廻りをされ、鼻の先を掌《てのひら》で撫でられるような見っともないざまさ、そこんところはお恥かしいと申すよりほかはねえ」
「地の理には勝てねえ理窟で、お前さんにおちどはねえ、だから、言って聞かせて上げるが、このお湯はね、奥州花巻の奥の台《だい》の温泉《ゆ》という名の聞えたお湯なんだよ」
「台の温泉《ゆ》」
「これから、ずっと南へ二十里ばかり下ると、そこがそれ、釜石の港というのへ出るたあ、仏様なればこそ知っているが、お前さんには全くお先真暗も無理はねえ」
「何とおっしゃる、これから二十里南へ下ると、その釜石の港というのへ出るんでござんすか」
「ござんすとも。そこの釜石の港へ行きさえすれば、多分もう駒井
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