兵助の面《かお》で、否《いや》も応《おう》もなく、この場は親分の対談に一切を任せて、一時この場を引上げるよりほかはない。
 暫くして湯壺のあたりは、全くの物静かさを取返してしまい、ただ人質の娘っ子の悶《もだ》え泣く声だけが聞える。
「七兵衛さん、あんまり年甲斐《としがい》もないことをしなさんなよ」
 一抱えの衣裳、旅の品を小脇にかいこんだ仏兵助は、そこで、七兵衛に向って、まず穏かにこう呼びかけました。七兵衛もやさしく受答えして、
「お言葉通り、こんな年甲斐のない真似《まね》をしたくはござんせんが、背に腹は換えられねえんでしてね。だが、わしを七兵衛と御承知のお前さんは、どなたですかね」
「こりゃ申し遅れました、わしは仙台の兵助と申すやくざの老《おい》ぼれでがすよ、それでも人様が、こんな鬼のような野郎を、仏《ほとけ》とおっしゃって下さいます、お見知り置かれ下さいましよ」
「これは恐れ入った御挨拶でござんす、お前さんが、音に聞く仏兵助さんとおっしゃる親分さんでござんしたか。だが仏のお名前に似合わねえすごいお腕で、あんまり旅の者を苛《いじ》めて下さるなよ」
「いや、お言葉でげす、なにもお前さんを苛めるのなんのと、そんな了見《りょうけん》で追いかけて来たんじゃござんせん、神野の旦那に頼まれて、男ずくでよんどころなく……」
「男ずくで、どなたにか頼まれなさるお前さんなら、男ずくで、わたしの方の力になって下すってもいいじゃございませんか、わしゃ、しがねえ旅の者、見のがしておくんなさるのが慈悲というものじゃごあせんか」
「なるほどな、実はね、七兵衛さん、わしも一旦は、仙台の役人から頼まれてお前さんを追いかけてみたけれど、今じゃそれ、舞台が変って、お前さんを助けて上げてえがために、こうして追いかけているのさ。わしの親心がおわかりかえ、武州青梅裏宿の七兵衛さん」
「二言目には、七兵衛さん、七兵衛さんと、馴々《なれなれ》しくおっしゃるが、どうしてまた、わしの名前までそう軽々しく御承知だえ。その猫撫声《ねこなでごえ》が油断がならねえ」
「これには、なかなか深エ仔細があるのさ。で、この通り、人を払ってお前さんと膝づめの対談《てえだん》をつけるつもりで出直して来たんだ。わしの心意気がわかったら、何はともあれ、その娘さんを放してやっちゃくれめえか」
「話があんまり旨過《うます》ぎるなあ、その手で
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