ます、どうあっても、その子を殺して下さいませんように」
「お泥棒様、もうし……」
 一方は力を尽して捕方の迫ることを抑《おさ》え、一方は合掌して、七兵衛が犠牲を殺さざらんことを哀求する。この場合、「お泥棒様」と言うて呼びかけたのは、窮せるもまた気の毒なものであるが、彼等としては、差当りこれよりほかの呼び声を知らないらしい。事実、七兵衛が泥棒であるかないか、泥棒であるとすれば、いかなる種類の泥棒であり、いかなる種類の罪を犯しているのかということは、まだ知らない。捕方が召捕りに来たから、悪漢にきまっている、悪漢の大部分は盗賊である、という観念から、盗賊を呼ぶに敬称を以てし、合掌を以てすることも、その心情を察すると気の毒なものがある。
 そこで、湯壺の中の、当の人質の娘はと見れば、これはほとんど失神状態で、締められざるうちに気絶しているようなものです。七兵衛は落着き払って、この人質を扱いながら、一方油断なく、第三、第四の策戦を頭の中にめぐらしてはいるらしい。
 ただ、それを囲む群集の喧々囂々《けんけんごうごう》、紛々乱々だけは如何《いかん》ともなす由がない。手のつけようも、足のつけようも知らない代り、喚《わめ》き叫び、哀《かな》しみ求むる声だけは徒《いたず》らに盛んである。
 この兼合いの期間、やや暫し、後ろの方に物々しげな声があって、
「さあ、みんな、退《ど》いた退いた、騒ぐばっかりで何事もなりゃしねえ」
と言って、人を押しわけて来たのは、親分の仏兵助であります。

         七十八

「さあ、みんな退いた、一人残らず退いた、頭数ばっかり集まったって、脳味噌が働かなけりゃなんにもならねえ」
 人を押し分けて来た仏兵助は、さっぱりした浴衣《ゆかた》をつけて、片脇には別に一抱えの衣類と旅装束、菅笠までを用意している。
 ここで一同は鳴りを静めて、道をあけて通す。
 そうすると、仏兵助は、その最前線にわだかまって、当の相手と、その手ごめの人質との当面に突立ちました。当面へ突立ったけれども、まず相手の当人には言葉をかけないで、左右を顧みて、
「一人残らず、あっちへ行ってくれ、話合いは一人と一人の対談《てえだん》に限る、わしに任してみんな引上げてくれ――野郎共、みなの衆をお連れ申して小屋の中で待っていな」
 これは圧力のある命令でもあり、本来、奥州切っての大親分と聞えた仏
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