、山の尾をめぐって、この湯壺の前を通りすがりに、はやこの中の女の数を読んで、選り取りにする場合はあれと、目星をつけていた七兵衛の眼力とすれば怖ろしい。しかし、言葉は人を食ったことほど実着なもので、
「皆さん、どうも、何ともはや、飛んだ御迷惑をかけて相済みません、わしは与兵衛と申す関東の旅の者でござんすが、こっちへ参りまして、よんどころない罪を着たもんでござんすから、お手先に追われて、この始末なんでございますよ――悪いようには致しませんから、まあ、ひとまず、お静かになすって下さいよ」
 これが、はやり切った群集に向って、至極穏かな七兵衛の挨拶なのです。湯壺の中では、おたがいに身体の三分の二は隠されているとは言いながら、泣き叫ぶ娘の細首へ手拭を捲きつけて、それを左右の手に持ちながらの挨拶ですから、手のつけようがないのです。
 ただ、娘が泣き叫ぶ声のすることによって、手拭の締め方が厳しくない――という安心があるだけのもの――
 あれよ、あれよと言うばかりで、手も足も出ない一同に向って、七兵衛がまたおだやかに挨拶をつけ加えました、
「わしも、悪いことは悪いで、罰をのがれようとは申しませんが、何をいうにも今度のことは旅の出来心でござんしてな、ここでむざむざと捕まって、年貢を納めるには早いような気がしますんでな――それにまだいろいろと話をつけて置きたい心残りもあるんでございますから、それらを済まして、これでいいという場合でなけりゃ、お縄にかかりたくねえという身上なんでございます。でございますから、今日のところは見逃していただきてえんだ。そこで、お気の毒だが、このお娘さんを、ちょっとお借り申して、当座の人質というわけなんです、決して、皆さんの心配なさるような、殺すの、なぐさむのというもくろみじゃございません。つまり、皆さんが、どうしてもこの場で、わたしを召捕ろうとこうおっしゃるなら、不憫《ふびん》じゃござんすが、この娘さんを一人、わっしは道連れにつれて行きてえとこう思うんで――もしまた、皆さんが、ここんところ少しの間、目をつぶって、わっしを物の一里ばかり立ちのく間、見のがして下さりさえすりゃあ、この娘を無疵《むきず》で、このまますんなりお返し申すんでございますが、いかがなもんでござんしょう」
 こう言って、群がり迫る人たちに挨拶を試みたが、青くなって静まり返った群集は、急に返答す
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