ありました。
 睦《むつ》まじく入浴していた十人の娘たちは、見栄も外聞もなく、一度にどっと飛び立ち、逃げ出しましたが、その中に、たった一人、逃げ後《おく》れた娘がありました。
 逃げ後れたのではない、驚いて飛び立とうとする途端を、七兵衛の手で押えられてしまったのです。かわいそうに、逃げ後れた一人の娘を、いきなり湯壺の中へ抑《おさ》えつけた七兵衛は、無惨にもその娘の細首へ自分の濡手拭をグッと捲きつけて――締めはしない、手軽く捲きつけただけで、
「静かにしな、お前を殺すんじゃねえから、ちょっとの間おとり[#「おとり」に傍点]になってくんな」
 こう言って娘の子を一人、抑えつけた時に、例の追手がばらばらとはせつけました。
 その時は、河原一帯、この野天の温泉場附近一帯が沸騰してしまったのです。
 追手も沸けば、娘たちも沸く。団体客全体が、挙げて叫喚怒号して、この場へ馳《は》せつけて来るのでした。
「喜代さんが、つかまった」
「喜代さんが、悪者になぐさまれる」
「喜代さんが、あれ、悪者にくびり殺されるよ」
「早く助けてあげておくれ」
「気ちがいです」
「気ちがいじゃな」
「喜代さんがおかわいそうに」
「あれあれ、なぐさまれます」
「あれあれ、殺されます」
 七兵衛から見れば、果してこれは時にとっての機転、あらかじめ入る時に、出る時を制して置いた万々一の策戦の一つ、みんごと人質《ひとじち》を一つせしめ上げたものと見られるが、群集にとっては、何のことだかわからない。悪漢は悪漢に相違ないが、なんぼなんでも悪漢ぶりがこれでは露骨過ぎる――気ちがいだ、気ちがいだ、女に見惚《みと》れて、いきなり発作した色情狂《いろきちがい》と見るよりほか、見ようがない。
 だが、馬鹿だか、気ちがいだか、それを調査している場合ではないのです。とりあえず、その狼藉《ろうぜき》の手から奪還しなければならぬと、一同が件《くだん》の湯壺のほとりへ殺到して来は来たが、これより以上は、手も足も出せない事の体《てい》になっている。
 湯壺の中で七兵衛に抑えられている娘は、この一行中で一番の器量よし、いちばん家柄のよい娘でありました。こういう場合にも、例の入るを計って出づるを制する七兵衛流の警戒ぶりは、かなり聡明に発揮せられている。取押えるにしても、屑は取押えないで、選りぬきのを取りおさえている。
 これで見ると、最初
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