なく、周囲もまた彼を冷たい眼で見ている。よし彼の所業は衆愚の眼をくらまし得ているとしてからが、彼がなるべく衆を避けるという気持が、群集とはソリの悪いものにしている。しかるに、今こうして全く見ず知らずの土地と人の中へ、無条件に身を齎《もたら》すことができさえすれば、彼はその独得の後天性を、誰に向って気兼ねする必要もなく、周囲もまた、彼を特に冷たい眼を以て見なければならないという因縁は、全く解放されているのです。
ですから、この瞬間に於ては、七兵衛は、純粋に楽しいものを楽しとする子供心にさえかえることを得たので、自分もまあこうして馬鹿になって、みんなと共に楽しむことができさえしたら、永久に、どんなに仕合せであるか、とさえ愚痴を催すのもやむを得ない。
これより先、ふっと、この湯壺の中に、なんとなく七兵衛の眼を引立てるものがありました。といっても、別段、湯壺の中の人の数に異変があったというわけではない――湯壺の隅の川沿いの東の一角に背をもたせて、七兵衛と同じように耳もとをごしごしやりながら、テレ臭く湯につかっている一人の男がある――ことが気になり出しました。
七十四
ひとしきり芸づくしが終って、やがて、また第二の我に返ってみると、さっきのあの怪しい、東の隅の一角の男はどうなった。
とりあえずそれが念頭に上ったものですから、七兵衛は幾つもの人間の頭越しに、そちらを見ると、いる、いる。
しゃあしゃあとして、まだああしていやがる、うっかりこっちが有頂天になっていた間に、こっそり、こっちの顔色をうかがってでもいたかと思うと、そんな素振《そぶり》はないが、いくつものかぼちゃ頭の間に、胡麻塩をふりかけた彼の髪の毛が動かずに浮いている。
気にかかる奴だなあ――
そのうちに、さしも芋を盛ったような、この天然風呂の浴客が、一人立ち、二人立ち、三人出る、五人出る、だんだんに湯から上っては手拭で身体《からだ》を拭き、晒木綿《さらしもめん》の六尺を捲きにかかりました。
ぞろぞろと湯上りにかかるものもあるが、また相変らずじっくりと腰を湯壺の中に据《す》え込んでいる者もある。風呂の中は大分動揺もしたし、留まるものよりは、上る者の方が多いけれども、さりとて全員争って出て行くというわけでもない。
こういう際に七兵衛は、どういう行動をとったらいいかということに少し惑い
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