年だ、聾《つんぼ》にして、唖《おし》にして、しかも孤《ひと》りなる異国少年――祈るがままに、さまたげず祈らしてやるがよろしい。
しかし、まあ、いったい、深夜早朝を問わず、かくも一心に何を祈るのだ。
どうぞ、神様、わたくしのこの口が人間並みに利《き》けまするように、また、どうぞ、神様、わたくしのこの耳が人様並みに聞えまするように――
お憫《あわ》れみ下さい。
不具な少年が、せめて人間並みになりたいという、それだけのものだろう――と、白雲はやはり、金椎少年の祈ろうとするものを、これだけの範囲に解釈している。浅草の観音様であろう、妻沼《めぬま》の聖天様《しょうてんさま》であろう、そこに若干のお賽銭《さいせん》を投じて、最も多くのお釣を取りたい、些少《さしょう》の礼拝を以て、最大の健康と利福とを授かりたい、その釣銭信仰を軽蔑してはいけない、その人情の弱点と、何物にかすがろうとする信頼心を、むしろ憐れまなくてはならない! という惻隠《そくいん》を移して、やはり、この金椎少年の祈り、すなわち病気平癒のために支払わんとする代価を、寛大に取扱ってやりたいと思っている。
白雲の認識では、これだけの同情しか持ち合わさないのだが、認識は認識として、感動はそれと別個の力で働いて行くのであります。
第一、この祈り方は、他のあらゆる多くの宗教の祈り方とは全く異っている。方法がちがっているのではない、心の向け方が異っている。一言に言えば、物を求むるの祈り方でなく、罪を謝せんとするの祈り方である。病を癒《いや》さんための祈願ではなく、身を捨てんとするの祈り方だ。
この苦しさから救えという祈りでなく、この苦しさを十倍にして、この一身を罰し給えという祈りに見える。己《おの》れの罪という罪、悪という悪をぶちまけて、これを審判の前に置き、残るところの裸身《はだかみ》を、あの十字の柱に向ってひしひしと投げかけている絶体絶命の仕草である。
こういう劇《はげ》しい祈り方というのはないもの――その劇しい祈り方に、白雲は次第につり込まれて、ついに身の毛のよだつ思いを如何《いかん》ともすることができない。
七十二
仙台の仏兵助《ほとけひょうすけ》に追われた裏宿の七兵衛は、安達ヶ原より、もっと奥の奥州の平野の中へ陥没してしまったことは前篇の通りです。
無人の平野大海の中へ陥没し
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