の魂を見つめないわけにはゆかない。

         七十一

 金椎少年は、駒井の如く語らない、茂太郎の如く歌わない。だから、何が故に信じ、何のために祈るのだか、一向わからない。
 駒井船長が語り過ぎるほど語り、茂太郎少年が歌い過ぎるほど歌う声の幾分をうつして、この信仰少年に語らせたいと思うけれど、それは思うに任せない。
 どだい、田山白雲は、宗教には冷淡な男である。冷淡というよりは、認識がまだそこまで至っていないと見た方がよろしい。小湊《こみなと》の浜で、梵音《ぼんおん》海潮音《かいちょうおん》を聞かせられたことはあるけれども、彼にはその感激はあるけれども、体得はない。名僧智識は格別だが、普通一般の宗教だの、信心だのというものは、要するに功利本位の願がけに過ぎないものだ。
 或いは観音を的にし、或いは聖天《しょうてん》を的にして、ただ単に祈る心は要するに、病気を直したい、息災延命で暮したい、女には惚《ほ》れられ、お金はたくさん儲《もう》かりますように――裸にしてしまえば要するに、そんなものだが、さて、それにしても、その信心ごころという殊勝なものを、無下《むげ》に軽蔑してはよろしくない。信ずるものは信ずるように、祈るものは祈りたいように任せて置けばよいのだ。ただひとり、キリシタンバテレンときては、表面は信心で、内実は日本の国を取りに来るのだということだから、こいつだけはうっかり許せない、と伝統的に心得ているだけで、あえてキリシタンバテレンの正体を確かにつき留めているわけでもない。
 だが、たとえ国禁なりといえ、この船の中に限って、この不具少年がひとり信仰している分には、歯牙にかくるに足りない。豊臣時代から、徳川初期のバテレンのように、大袈裟《おおげさ》に外国と連絡をとらない限り、日本の内地で一人や二人、こっそり拝んでいる分には、なにもそう手厳しく詮議するがものはないじゃないか、大人げない――といった程度のキリシタン観に止まっている。
 金椎少年はこの船の中で、ひとりキリシタンを信じている。暇があればキリシタンのお経を読み、感きわまれば到るところで、ひとり祈るの習慣を持っていることは、田山白雲も夙《つと》に認めている。ただ今晩は今晩並みに、かつまた異常なところで不意に出くわしたから、こちらの衝動が大きかったというまでのことである。
 安らかに祈らしてやれ、哀れな少
前へ 次へ
全183ページ中129ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング