の入口から、脱ぎ捨てた草履《ぞうり》の狼藉ぶりを見て、前の室にすすり泣きしていた女の、寝乱れを思い合わせないわけにはゆかない。
しかし、答《いら》えのないものを、強《し》いて叩き起すような振舞をせずして、白雲はそのまま取って返して、ランタンを振り照らしつつ、前のメーン・マストの下まで再び検分の気持で来て見ると、茂太郎は早くも帆柱から下りて、白雲を待っているもののように、そこに立っています――
六十七
田山白雲は、茂太郎には無言で、ランタンをそこらあたりに振り照らして、狼藉の行われたらしいマストの下あたりを隈《くま》なく照らして見たが、
「嗚呼《ああ》――」
と、白雲に似合わしからぬ深い歎息をして、
「茂――」
「はい」
「お前、御苦労だが、箒《ほうき》を持って来て、ここをすっかり掃いてくれ」
「はい」
「ゴミは一切かまわず、海の中へ投げ込んでしまえ」
「はい」
清澄の茂太郎は、片手には相変らず般若《はんにゃ》の面を抱えて、白雲から言いつけられた通り、一隅から小箒を持って来て、そこらあたりを撫《な》ではじめました。
暫くは、無気味に、そこらあたりを掃き清めているうちに、茂太郎はようやく気がかわったと共に、
「田山先生」
「何だ」
「なんだか、いやですね」
「何がいやだ」
「なんだか、空気がいやですね」
「生《なま》を言うなよ」
「あたい、どうも気が晴れない」
「茂――お前は、あれからずっとこの帆柱の上にいたのか」
「あれから、といって、どれからだか、先生御存じ?」
「いや、かなり長い時間の間、その上にいて、下の有様を一切、見廻していたのだな」
「ええ、あたい、宵のうちからここへ上りました、けれども、多くは空を見ていたんです、下ばかり見廻していたんじゃありません。そのうちに、下を見なければならないようになったから……」
「うむ、お前の眼は遠目も利くが、夜目も利くはずだな」
「ええ、見え過ぎるほど見えることがあって、実は困るんです」
「人並すぐれた眼のはたらきを持っていて、困るということはあるまい」
「困ることがあります、見たいものが見える時はいいが、見なくてよいものを見てしまわなければならない時は……」
茂太郎はこう言いながら、広い甲板を縦横に箒《ほうき》で撫で廻しているうちに、歌となりました。
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とめのお地蔵様
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