、これは只《ただ》の股引ではありませんでした。充分に腕に覚えのある捕手の一人でした。腕に覚えのあるべきのみならず、前のいきさつを知っている者は、たしかに面《かお》にも見覚えがあるべきはずです。これぞ長浜の夜中の捕物に、現にここに見る宇治山田の米友ほどのものを取って押えて、ここへみごと晒《さら》しにかけるまでの手柄を現わした、あの夜の名捕方――轟《とどろき》の源松という勘定奉行差廻しの手利《てき》きでありました。
それに飛びかかられた旅の男――もう四の五もない、ぱっちにかかった雀のように、おっかぶされたかと思うと、
「何を、田舎岡っ引め、しゃらくせえ真似をしやがんな」
武者ぶりつかれてかえって、度胸が据ったらしい旅の男――窮鼠《きゅうそ》猫を噛《か》むというよりも、最初に猫をかぶっていた狐が、ここで本性を現わしたというような逆姿勢となって、
「まだこんなところで手前たちに年貢を納めるにゃ早えやい」
そこで、またしても大格闘がはじまったかと思う間もなく、旅の男の風合羽がスルリと解けて千草股引の頭の上からかぶさり、その間に股の間をスリ抜けて、一散に逃げました。
「失策《しま》った!」
さすがの名捕方に空を掴《つか》ませて、身を翻したそのすばしっこさ。同時に摺《す》り抜けて走るその足の迅《はや》いこと――ここに至って、只のむじな[#「むじな」に傍点]でないことの面目が、群集をあっ! と言わせる。
八
とりにがした、名捕方の轟の源松は歯噛みをしました。事実、こんなはずではなかった。有無《うむ》を言わさず引括《ひっくく》り上げるつもりであったが、相手を甘く見すぎたのか。そうではない、相手が全く意表に出でたからである。意表に出でたといっても、およそ悪いことをするような奴は、いつでも人の意表に出でなければ立行かない商売なのだから、人の思うような壺にばかりはま[#「はま」に傍点]っていた日には、悪党商売は成り立たないのだから、そういうやからを相手に一枚上を行かなければならない捕方連が、不用意とは言いながら、そう甘い手を用いたはずはないのに、ことに先頃は、ここに見る宇治山田の米友をすら、あのめざましい活劇の下に、最後の鉤縄《かぎなわ》を相手の裾に打込んで首尾よくからめ取ったほどの腕利きが、ここでこんなに無雑作にカスを食わされるとは、気が利かな過ぎるという
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