ものであるが――それにはそれでまた理由もあって、実は最初、「待ちろ――逃げちゃあいけねえぞ」と居直った時に、この捕方は早速に相手の利腕をむんずと掴んだつもりでした。ところが掴んだつもりの相手の利腕を掴みそこねてしまったのが意外です。自分ながら腕の狂い方の激しいのに一時、あっとしたが、その掴んだ手ごたえがさっぱりなかったので、はっと狼狽したのも実は無理がない、合羽の下に当然ひそんでいなければならない右の腕が、その相手の旅の男の肩の下に有合わさなかったのです。
それは、あえて懐ろ手をしていたわけでもなければ、その激しい掴みかかりを引っぱずしたという次第でもない、本来、この旅の男には右の腕がなかったのです。いかな名探偵といえどもないものは掴めない。
有るべく予期して無かったというのは見込違いではない。誰でも、普通の人間である限り、この合羽の下に二本の腕がある、一方が右腕であれば、一方は当然左腕であることは常識になっている――ところが、この旅の男には、取らるべき利腕の右が存在していなかった。そこでまず殺してかかるべき利腕を殺すことができないのみならず、その掴みそこねたこっちの破綻《はたん》を透かさず泳がせて置いて、間一髪《かんいっぱつ》に摺り抜けてしまったという早業になるのです――摺り抜けた途端が、すでに走り出したことになる。摺り抜けるのも鮮やかなものだったが、その逃げっぷりがまた一層あざやかなもので――敵も、味方も、あっ! と言って、思わず胸を透かさせたと言いつべき切れっぷりでありました。
ここまで言ってしまえば、当然このすばしっこい摺抜け者が、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵という名代《なだい》のやくざ[#「やくざ」に傍点]野郎にほかならないことは、定連《じょうれん》はみな感づいていないはずはないのであります。
果して、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百の野郎は、かくの如くしてこの場を走り出しました。
一方、名探偵の轟は、ひとまずは不意を食って泳がせられたものの、これをこのまま口をあいて見送っている男ではない。
かくて、白昼、意外な捕物沙汰が街道を驚かして、この事のセンセーションのために、「晒し」そのものの場は閑却されたのみならず、「晒し」見張りの役人非人までが、轟親分の捕方の方へ気を取られて、バラバラと走り出したという乱脈になりました。
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